2011年06月17日(金) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
★アレサ・フランクリンはデトロイト出身なのになぜモータウンに入らなかったのか
テーマ:アーティスト関連
★アレサ・フランクリンはデトロイト出身なのになぜモータウンに入らなかったのか
【Why Aretha Franklin Didn’t Go With Motown】
謎。
日曜日(2011年6月12日)「ソウル・サーチン」のコーナーで、アレサ・フランクリンの『グレイト・アメリカン・ソングブック』を紹介した。これは、アレサが1960年から1967年まで在籍していたコロンビア・レコードに残された音源を編纂した企画アルバム。ロッド・スチュワートがスタンダードばかりを録音した作品を作り、このタイトルでリリースしたところベストセラーとなったことから、その企画に乗ったもの。音源としてはほとんど過去にリリースされているものばかりだが、このネーミングがひじょうによく、マーケティングのうまさが目立った新作だ。
これを紹介するとき、デトロイト出身のDJマーヴィン・デンジャーフィールドは、アレサ自身がデトロイトの名士ということもあり、親近感を覚えている。そして、マーヴィン曰く「デトロイトといえば、モータウンでしょう。どうして、アレサはモータウンに入らなかったんでしょう」と疑問をなげかけてきた。
これはおもしろい質問なので、番組でも答えたがブログでも書いておきたい。
まず、アレサがコロンビアと契約したのが、1960年6月14日。たぶん交渉はその前から進んでいたのだろう。ベリー・ゴーディーがモータウンを始めるのが1959年1月、最初のミリオン・セラーとなるミラクルズの「ショップ・アラウンド」がリリースされるのが1960年9月。その後、年をまたいで大ヒットする。1960年の初めのあたりでは、まだベリー・ゴーディーは一介の弱小インディ・レーベルのどこの馬の骨ともわからぬ人物だ。
一方、アレサの父、CLフランクリンは、地元デトロイトの名士であり、有力な教会の司祭。いわば、デトロイトでは有名なセレブで、その娘となれば、それだけで注目されるエリート中のエリート的存在だ。CLフランクリンからすれば、ベリーなど、鼻にも掛けない存在、見下ろすような感じだっただろう。もし、愛娘をレコード会社と契約させるなら、当時のメジャー・レコード会社と契約させるのが、自然だ。当時、メジャーといえば、コロンビア、RCA、そして、キャピトルくらいだろう。そんな中、コロンビアが熱心に誘ってくれれば、コロンビアとの契約は文句なしだった。
しかし、運命とは皮肉なもので、コロンビアではアレサはほとんどヒットらしいヒットをだせない。レコード会社のジャズ、ブルーズ・ヴォーカル寄りのコンセプトが受け入れられなかったのだ。
一方で、1960年、61年以降、徐々にヒットを出し始めたモータウンは、急速に地元デトロイトのナンバー・ワン・インディ・レーベルへ成長していく。特に1965年、ダイアナ・ロスとシュープリームスが全米ナンバー・ワン・ヒットを連発すると、アメリカのモータウン、世界のモータウンというビッグな存在になり、デトロイト中のシンガーたちは、みなモータウンに入りたがった。それは、デトロイトだけでなく、中西部のシンガーたちはみなモータウン入りを狙うようになったほどだ。
アレサは、1967年コロンビアを離れて、アトランティックに移籍するが、このとき、モータウン入りの可能性はあったのか。そのあたりはわからないのだが、この時点でモータウンがラヴコールをすれば、少なくとも、交渉のテーブルには乗ったのだろう。しかし、そうはならず、アトランティックに移籍し、そこから歴史的な快進撃が始まる。もちろん、1967年時点ではアトランティック、とりわけ、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーがコロンビア時代からアレサに目を付け、延々とアトランティック入りのラヴコールを送っていたので、その結果アトランティック入りしたわけだ。
モータウンはアレサにアプローチしたのか。この時点でモータウンのナンバー・ワン・女性シンガーは、ご存知の通り、ダイアナ・ロスである。モータウン社長、ベリー・ゴーディーの恋人でもあり、モータウンのナンバー・ワン・プッシュ・アーティストが女性シンガーのダイアナだった。そうなると、そこにアレサを招き入れることは不可能だ。同じような女性シンガーを一社で二人かかえるわけにはいかない。つまり、ダイアナがいたから、アレサはモータウンに来なかった、という推測は成り立つ。
1960年の時点では、モータウンは、アレサ側からすれば、契約を結ぶようなレーベルではなかった。1967年の時点では、モータウンは十分ビッグになったが、そこに女性横綱としてダイアナがいたので、そのポジションには入れなかった、ということになる。この二つの大きな要因で、アレサはモータウンに入らなかった。
アトランティックに入り、ジェリー・ウェクスラーらのソウルフルな路線が全米ナンバーワン・女性ソウル・シンガーを生み出したのだから、おもしろい。ただ、モータウンに入っていたら、グラミー連続獲得ということはできなかっただろう。「たら・れば」を言っても仕方がないが、アレサがモータウンに入ったらどうなっていたのかというのも、ソウルの歴史を振り返るときに、ちょっと見てみたい一ページではある。
■ソウル・サーチン:ザ・セッション~アレサ・フランクリン・レポート
「ソウル・サーチン」イヴェントでも、2007年3月にアレサ・フランクリンをとりあげています。
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070327.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070328.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070329.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070330.html
■ 過去関連記事
2010年12月11日(土)
アレサ・フランクリン~すい臓がんで手術~5月までの予定キャンセル
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10732753969.html
2009年01月21日(水)
オバマ大統領誕生~アレサの歌が祝福
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090121.html
■グレイト・アメリカン・ソングブック
ここに収録されているのは、1960年から1965年までに録音されたもの。アレサは1942年3月生まれだから、18歳から22-3歳までの作品だ。20歳といえば、大学2年生。曲によるが、はたちでこの表現力には驚かされる。
ENT>ARETHA
【Why Aretha Franklin Didn’t Go With Motown】
謎。
日曜日(2011年6月12日)「ソウル・サーチン」のコーナーで、アレサ・フランクリンの『グレイト・アメリカン・ソングブック』を紹介した。これは、アレサが1960年から1967年まで在籍していたコロンビア・レコードに残された音源を編纂した企画アルバム。ロッド・スチュワートがスタンダードばかりを録音した作品を作り、このタイトルでリリースしたところベストセラーとなったことから、その企画に乗ったもの。音源としてはほとんど過去にリリースされているものばかりだが、このネーミングがひじょうによく、マーケティングのうまさが目立った新作だ。
これを紹介するとき、デトロイト出身のDJマーヴィン・デンジャーフィールドは、アレサ自身がデトロイトの名士ということもあり、親近感を覚えている。そして、マーヴィン曰く「デトロイトといえば、モータウンでしょう。どうして、アレサはモータウンに入らなかったんでしょう」と疑問をなげかけてきた。
これはおもしろい質問なので、番組でも答えたがブログでも書いておきたい。
まず、アレサがコロンビアと契約したのが、1960年6月14日。たぶん交渉はその前から進んでいたのだろう。ベリー・ゴーディーがモータウンを始めるのが1959年1月、最初のミリオン・セラーとなるミラクルズの「ショップ・アラウンド」がリリースされるのが1960年9月。その後、年をまたいで大ヒットする。1960年の初めのあたりでは、まだベリー・ゴーディーは一介の弱小インディ・レーベルのどこの馬の骨ともわからぬ人物だ。
一方、アレサの父、CLフランクリンは、地元デトロイトの名士であり、有力な教会の司祭。いわば、デトロイトでは有名なセレブで、その娘となれば、それだけで注目されるエリート中のエリート的存在だ。CLフランクリンからすれば、ベリーなど、鼻にも掛けない存在、見下ろすような感じだっただろう。もし、愛娘をレコード会社と契約させるなら、当時のメジャー・レコード会社と契約させるのが、自然だ。当時、メジャーといえば、コロンビア、RCA、そして、キャピトルくらいだろう。そんな中、コロンビアが熱心に誘ってくれれば、コロンビアとの契約は文句なしだった。
しかし、運命とは皮肉なもので、コロンビアではアレサはほとんどヒットらしいヒットをだせない。レコード会社のジャズ、ブルーズ・ヴォーカル寄りのコンセプトが受け入れられなかったのだ。
一方で、1960年、61年以降、徐々にヒットを出し始めたモータウンは、急速に地元デトロイトのナンバー・ワン・インディ・レーベルへ成長していく。特に1965年、ダイアナ・ロスとシュープリームスが全米ナンバー・ワン・ヒットを連発すると、アメリカのモータウン、世界のモータウンというビッグな存在になり、デトロイト中のシンガーたちは、みなモータウンに入りたがった。それは、デトロイトだけでなく、中西部のシンガーたちはみなモータウン入りを狙うようになったほどだ。
アレサは、1967年コロンビアを離れて、アトランティックに移籍するが、このとき、モータウン入りの可能性はあったのか。そのあたりはわからないのだが、この時点でモータウンがラヴコールをすれば、少なくとも、交渉のテーブルには乗ったのだろう。しかし、そうはならず、アトランティックに移籍し、そこから歴史的な快進撃が始まる。もちろん、1967年時点ではアトランティック、とりわけ、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーがコロンビア時代からアレサに目を付け、延々とアトランティック入りのラヴコールを送っていたので、その結果アトランティック入りしたわけだ。
モータウンはアレサにアプローチしたのか。この時点でモータウンのナンバー・ワン・女性シンガーは、ご存知の通り、ダイアナ・ロスである。モータウン社長、ベリー・ゴーディーの恋人でもあり、モータウンのナンバー・ワン・プッシュ・アーティストが女性シンガーのダイアナだった。そうなると、そこにアレサを招き入れることは不可能だ。同じような女性シンガーを一社で二人かかえるわけにはいかない。つまり、ダイアナがいたから、アレサはモータウンに来なかった、という推測は成り立つ。
1960年の時点では、モータウンは、アレサ側からすれば、契約を結ぶようなレーベルではなかった。1967年の時点では、モータウンは十分ビッグになったが、そこに女性横綱としてダイアナがいたので、そのポジションには入れなかった、ということになる。この二つの大きな要因で、アレサはモータウンに入らなかった。
アトランティックに入り、ジェリー・ウェクスラーらのソウルフルな路線が全米ナンバーワン・女性ソウル・シンガーを生み出したのだから、おもしろい。ただ、モータウンに入っていたら、グラミー連続獲得ということはできなかっただろう。「たら・れば」を言っても仕方がないが、アレサがモータウンに入ったらどうなっていたのかというのも、ソウルの歴史を振り返るときに、ちょっと見てみたい一ページではある。
■ソウル・サーチン:ザ・セッション~アレサ・フランクリン・レポート
「ソウル・サーチン」イヴェントでも、2007年3月にアレサ・フランクリンをとりあげています。
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070327.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070328.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070329.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20070330.html
■ 過去関連記事
2010年12月11日(土)
アレサ・フランクリン~すい臓がんで手術~5月までの予定キャンセル
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10732753969.html
2009年01月21日(水)
オバマ大統領誕生~アレサの歌が祝福
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090121.html
■グレイト・アメリカン・ソングブック
グレイト・アメリカン・ソングブック
posted with amazlet at 11.06.14
アレサ・フランクリン
SMJ (2011-05-11)
売り上げランキング: 35036
SMJ (2011-05-11)
売り上げランキング: 35036
ここに収録されているのは、1960年から1965年までに録音されたもの。アレサは1942年3月生まれだから、18歳から22-3歳までの作品だ。20歳といえば、大学2年生。曲によるが、はたちでこの表現力には驚かされる。
ENT>ARETHA
1 ■参考になります
マーヴィンがローカルFMでDJをしている時に、私は有線放送で夜モニターをしていて、よくリクエストをしていました。
アレサの経歴は知らなくて。詳しく書かれてあるので、参考になります。最近の課題は、分かりやすく簡潔に。ミュージッシャンにインタビューみたいな事は、よくしますが、文章にする時が、まとまらなくて。音楽評論家はあきらめて、写真家のほうがよいかな?と考えていますが。現在は、勉強中なので、ブログを読ませていただいて参考にしています。