2011年06月16日(木) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
●カール・ガードナー(コースターズ)死去~ロック殿堂入り:コミカルなヒット多数
テーマ:訃報関連
●カール・ガードナー(コースターズ)死去~ロック殿堂入り:コミカルなヒット多数
【Carl Gardner Dies At 83】
訃報。
1950年代後期から60年代初期にかけて、ロックンロール、ソウル・ミュージックのヴォーカル・グループとして大人気を博したコースターズのリーダーでありリード・シンガーだったカール・ガードナーが、2011年6月12日(日)、フロリダ州ポート・セント・ルーシーのホスピスで死去した。83歳だった。これまで、鬱血性心不全、若干の認知症(アルツハイマー)を患っていた。
ロックンロール殿堂入りを果たしているコースターズは、1957年「サーチン」、「ヤケティー・ヤック」(1958年)(華麗なサックスは、キング・カーティス)、「チャーリー・ブラウン」(1959年)、「ポイズン・アイヴィー」(1959年)など多数のロックンロール、ドゥワップ的作品のヒットを送り出した。コミカルな動き、曲調とともに、「ノヴェルティー・グループ」(きわものグループ)として捉えられたが、R&Bフィールドだけでなく、ポップ部門へもクロスオーヴァー・ヒットした。曲の振り付けはほとんどカールがやっていた、という。
コースターズの育ての親、リーバー&ストーラーの物語は、そののちブロードウェイ・ショー『スモーク・ジョーズ・カフェ』のベースになる。
カール・ガードナーは、1928年(昭和3年)4月29日、テキサス州タイラーの生まれ。幼少から歌い、兵役後1950年代初期にロスアンジェルスに居を構えた。ここでいくつものグループに参加してきたが、そのうちのひとつがロビンズ。これがソングライターとして活躍していたジェリー・リーバー&マイク・ストーラーによって育てられた。
その後、リーバーたちが彼らの作品を歌わせるヴォーカル・グループを作ろうとして、メンバーを集めてこのコースターズを結成。ロビンズからカール・ガードナーとボビー・ナンを引き抜き、これにリオン・ヒューズ、ビリー・ガイの二人を加え4人組のコースターズを作った。(ギタリストのアドルフ・ジェイコブスも準メンバー的に加わる) 1955年のこと。まさに、ロックンロール誕生の年だ。そして、1956年、「ダウン・イン・メキシコ」がデビュー作で大ヒット、一躍人気となった。ミディアムからアップテンポの曲が次々ヒット。なお、この「ダウン・イン・メキシコ」は、2007年、クエンティン・タランティーノ監督の映画『デス・プルーフ in グラインドハウス』(Death Proof)に使用された。
1957年終わりに、彼らはそれまでの本拠ロスアンジェルスからニューヨークへ移住。このときに、ナンとヒューズが、コーネル・ガンターとウィリー・ジョーンズに交代した。今回のガードナーの死去で、コーネル、ウィリー、ボビーも他界していたことから、第二次コースターズのメンバー4人全員が死去したことになる。第一次(一番最初の)オリジナル・メンバーで、唯一生存者はレオン・ヒューズのみ。
カール・ガードナーは、そうしたアップテンポのヒットもいいが、本人としてはバラードをもっと歌いたがったという。
コースターズのレコードはヒットし、ライヴも成功。60年代初期に週給400ドル(1ドル360円として14万4千円)も稼ぐまでになった。おそらく1日1ドルもあれば最低限暮らせた時代だから、大変な高給取りになった。1970年代、80年代もいわゆる「オールディーズ・サーキット」で活躍。しかし、グループを辞めたメンバーが「コースターズ」を名乗り、一時期複数のコースターズが存在し、ライヴを行っていたこともあった。裁判を経て、現在は、ガードナーがその名前の権利を所有している。
1987年、ロックンロール殿堂入り。
ところが、1990年代に入って、どうしても喫煙を止められないヘヴィー・スモーカーだった彼は、1993年、咽頭癌になり、X線で約3ヵ月治療。そのときは、またロードに復帰した。2004年、今度は心臓発作を起こしたが、それでも復帰。しかし、2005年、自分はリタイアし息子カール・ジュニアを新しいリード・シンガーにした。
ガードナーは偽のグループが有名グループの名前を語ってライヴを行うことを禁じる法案の成立にも積極的にかかわり、これは2007年、フロリダ州で条例となった。
カール・ガードナーの葬儀は、6月21日午後1時からフロリダ州ポート・セント・ルーシーのモーニングサイド教会で、最後のお別れ(Viewing)は、6月20日アイコック葬儀ホームで午後2時から8時まで。妻のヴェタ、娘のブレンダ、2人の息子カール・ジュニアとアヒリー、さらに7人の孫、1人のひ孫らによって送られる。
コースターズが生み出したコミカルなヴォーカル・グループというコンセプトは、他に類を見ず、彼らを真似たグループというものもほとんど出てこなかった。それだけ、ワン&オンリーの存在だった、と言えるのだろう。また、60年代から70年代にかけて多くの白人ロック・アーティストたちが、彼らの作品をカヴァーした。ビートルズやローリング・ストーンズらも、メジャーになる前に、彼らの作品をカヴァーしていた。
コースターズは1982年、鈴木雅之さんらが主催した「ドゥワップ・カーニヴァル」第二回で来日している。
Funeral services for Carl Gardner will be held at Morningside Church in Port St. Lucie on June 21 at 1 p.m. A viewing will take place a day earlier at the Aycock Funeral Home, also in Port St. Lucie, from 2 to 8 p.m.
■ ウォールストリート・ジャーナル
http://blogs.wsj.com/speakeasy/2011/06/14/a-memorial-tribute-to-rock-clown-prince-carl-gardner/?mod=google_news_blog
■ コースターズ ベスト
OBITUARY> Gardner, Carl Edward (April 29, 1928 – June 12, 2011, 83 year-old)
【Carl Gardner Dies At 83】
訃報。
1950年代後期から60年代初期にかけて、ロックンロール、ソウル・ミュージックのヴォーカル・グループとして大人気を博したコースターズのリーダーでありリード・シンガーだったカール・ガードナーが、2011年6月12日(日)、フロリダ州ポート・セント・ルーシーのホスピスで死去した。83歳だった。これまで、鬱血性心不全、若干の認知症(アルツハイマー)を患っていた。
ロックンロール殿堂入りを果たしているコースターズは、1957年「サーチン」、「ヤケティー・ヤック」(1958年)(華麗なサックスは、キング・カーティス)、「チャーリー・ブラウン」(1959年)、「ポイズン・アイヴィー」(1959年)など多数のロックンロール、ドゥワップ的作品のヒットを送り出した。コミカルな動き、曲調とともに、「ノヴェルティー・グループ」(きわものグループ)として捉えられたが、R&Bフィールドだけでなく、ポップ部門へもクロスオーヴァー・ヒットした。曲の振り付けはほとんどカールがやっていた、という。
コースターズの育ての親、リーバー&ストーラーの物語は、そののちブロードウェイ・ショー『スモーク・ジョーズ・カフェ』のベースになる。
カール・ガードナーは、1928年(昭和3年)4月29日、テキサス州タイラーの生まれ。幼少から歌い、兵役後1950年代初期にロスアンジェルスに居を構えた。ここでいくつものグループに参加してきたが、そのうちのひとつがロビンズ。これがソングライターとして活躍していたジェリー・リーバー&マイク・ストーラーによって育てられた。
その後、リーバーたちが彼らの作品を歌わせるヴォーカル・グループを作ろうとして、メンバーを集めてこのコースターズを結成。ロビンズからカール・ガードナーとボビー・ナンを引き抜き、これにリオン・ヒューズ、ビリー・ガイの二人を加え4人組のコースターズを作った。(ギタリストのアドルフ・ジェイコブスも準メンバー的に加わる) 1955年のこと。まさに、ロックンロール誕生の年だ。そして、1956年、「ダウン・イン・メキシコ」がデビュー作で大ヒット、一躍人気となった。ミディアムからアップテンポの曲が次々ヒット。なお、この「ダウン・イン・メキシコ」は、2007年、クエンティン・タランティーノ監督の映画『デス・プルーフ in グラインドハウス』(Death Proof)に使用された。
1957年終わりに、彼らはそれまでの本拠ロスアンジェルスからニューヨークへ移住。このときに、ナンとヒューズが、コーネル・ガンターとウィリー・ジョーンズに交代した。今回のガードナーの死去で、コーネル、ウィリー、ボビーも他界していたことから、第二次コースターズのメンバー4人全員が死去したことになる。第一次(一番最初の)オリジナル・メンバーで、唯一生存者はレオン・ヒューズのみ。
カール・ガードナーは、そうしたアップテンポのヒットもいいが、本人としてはバラードをもっと歌いたがったという。
コースターズのレコードはヒットし、ライヴも成功。60年代初期に週給400ドル(1ドル360円として14万4千円)も稼ぐまでになった。おそらく1日1ドルもあれば最低限暮らせた時代だから、大変な高給取りになった。1970年代、80年代もいわゆる「オールディーズ・サーキット」で活躍。しかし、グループを辞めたメンバーが「コースターズ」を名乗り、一時期複数のコースターズが存在し、ライヴを行っていたこともあった。裁判を経て、現在は、ガードナーがその名前の権利を所有している。
1987年、ロックンロール殿堂入り。
ところが、1990年代に入って、どうしても喫煙を止められないヘヴィー・スモーカーだった彼は、1993年、咽頭癌になり、X線で約3ヵ月治療。そのときは、またロードに復帰した。2004年、今度は心臓発作を起こしたが、それでも復帰。しかし、2005年、自分はリタイアし息子カール・ジュニアを新しいリード・シンガーにした。
ガードナーは偽のグループが有名グループの名前を語ってライヴを行うことを禁じる法案の成立にも積極的にかかわり、これは2007年、フロリダ州で条例となった。
カール・ガードナーの葬儀は、6月21日午後1時からフロリダ州ポート・セント・ルーシーのモーニングサイド教会で、最後のお別れ(Viewing)は、6月20日アイコック葬儀ホームで午後2時から8時まで。妻のヴェタ、娘のブレンダ、2人の息子カール・ジュニアとアヒリー、さらに7人の孫、1人のひ孫らによって送られる。
コースターズが生み出したコミカルなヴォーカル・グループというコンセプトは、他に類を見ず、彼らを真似たグループというものもほとんど出てこなかった。それだけ、ワン&オンリーの存在だった、と言えるのだろう。また、60年代から70年代にかけて多くの白人ロック・アーティストたちが、彼らの作品をカヴァーした。ビートルズやローリング・ストーンズらも、メジャーになる前に、彼らの作品をカヴァーしていた。
コースターズは1982年、鈴木雅之さんらが主催した「ドゥワップ・カーニヴァル」第二回で来日している。
Funeral services for Carl Gardner will be held at Morningside Church in Port St. Lucie on June 21 at 1 p.m. A viewing will take place a day earlier at the Aycock Funeral Home, also in Port St. Lucie, from 2 to 8 p.m.
■ ウォールストリート・ジャーナル
http://blogs.wsj.com/speakeasy/2011/06/14/a-memorial-tribute-to-rock-clown-prince-carl-gardner/?mod=google_news_blog
■ コースターズ ベスト
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OBITUARY> Gardner, Carl Edward (April 29, 1928 – June 12, 2011, 83 year-old)