2011年05月29日(日) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
●ギル・スコット・ヘロン62歳で死去~黒人吟遊詩人
テーマ:訃報関連
●ギル・スコット・ヘロン62歳で死去~黒人吟遊詩人
(エヴァ・キャシディー、パート2は、明日以降におおくりします)
【Gil Scott-Heron Dies At 62】
訃報。
アメリカの黒人吟遊詩人、「ブラック・ボブ・ディラン」「ゴッドファーザー・オブ・ヒップホップ・ラップ」などと呼ばれているシンガー・ソングライター、ギル・スコット・ヘロンが、2011年5月27日(金)、ニューヨークのセント・ルークス病院で死去した。62歳だった。ヨーロッパ・ツアーから戻ってから体調を崩していたという。死因は発表されていない。
スコット・ヘロンは、1970年代から独自の視点で社会を描く作品を多数輩出し、自ら歌と「語り(スポークン・ワード)」をミックスした独自のスタイルでレコーディング。そのメッセージから、ブラック・カルチャーの重要な一役を担った。代表作には、「レヴリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド(革命はテレビ中継されない)」、「ザ・ボトル」など。音楽的には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブルーズなどを融合。これにナレーションのような語りをいれ、一種の「ポエトリー・リーディング」(詩朗読)をレコード化して独自の世界を作り出した。
それゆえに、後に大きな潮流となるヒップホップのラップに多大な影響を与えた。特にカニエ・ウェストがヘロンをお気に入りでいくつもの曲をサンプリングなどで使用。カニエを通じて、若い世代でも人気を集めていた。2010年、およそ16年ぶりの新作アルバム『アイム・ニュー・ヒア』を出していた。
すでにアメリカ音楽業界の多数の人たちから追悼コメントなどが、ツイッターなどで寄せられている。
パブリック・エナミーのチャックD。「GSH(ギル・スコット・ヘロン)は、世界について、ヒップホップの世界に素晴らしいテンプレート(基準、基本パターン)を与えてくれた」「驚愕しているのは、ちょうど彼の次のアルバム用に1曲書き、ゲスト・ヴォーカルをレコーディングしたところだったからだ。このことから、本当に時は貴重だと思わせられる」
先の「レヴォリューション…」は、マスメディアでは大事なことは何も放送されない、くだらないことしか放送されない、というマスメディア、特にテレビに対する強烈な批判曲だったが、そのタイトルは、時代も流れ、「革命はインターネットで生中継」される時代になった。さすがに、「革命、ネットで生中継」は慧眼のギル・スコット・ヘロンでさえも予期できなかっただろうが、その強烈な本質的なメッセージはいまだに有効だ。
++++
「キング・オブ・ヒップホップ・ラップ」
評伝。
まさにヒップホップの世界で言うところのラップという固有名詞がない頃からのオリジナル・ラッパーの一人が、ギル・スコット・ヘロンだ。当時は、彼のようなスタイルは、「スポークン・ワード」「ポエトリー・リーディング(詩の朗読)」「ナレーティヴ」などと呼ばれていた。ときに、しっとり、ときにあじり、抑揚をつけて語るそのスタイルは、のちのヒップホップの世界で形式を確固たるものにするラップの原形ともいえる。ソウルの世界ではルー・ロウルズがこうしたナレーティヴ、スポークン・ワード、ラップが得意だったが、ルーがエンタテインメント系でラップをおしゃれに聴かせたのに対し、ギル・スコット・ヘロンは、社会派、急進派、革新派としてラップ、語りを聴かせ、そのスタンスを鮮明にしていた。
ギル・スコット・ヘロンは1949年4月1日イリノイ州シカゴ生まれ。テネシー州ジャクソン育ち。父親はジャマイカ系、母親はアフリカン・アメリカン。両親の離婚にともない13歳のとき(1962年)、ニューヨークへ。その後ペンシルヴェニア州のリンカーン大学へ進学、ここでミュージシャンのブライアン・ジャクソンと知り合う。大学を2年ほどで中退した彼は、1970年、小説『ザ・ヴァルチャー』、『ザ・ニガー・ファクトリー』を出版。この頃、フライング・ダッチマン・レコードと契約、シンガー・ソングライターとしてもデビュー。すでに社会派メッセージが色濃くでた作品だった。さらに、後にブライアン・ジャクソンと組んで、二人名義のアルバムをアリスタ・レコードからリリース、これが徐々に大評判となっていく。アリスタには1985年まで在籍。
レコーディングにつきあったミュージシャンは、ロン・カーター(ベース)、バーナード・パーディー(ドラムス)、ヒューバート・ロウズ(サックスなど)などそうそうたるメンバーだった。
これらの作品群の中から当時のアルコール中毒問題を歌った「イン・ザ・ボトル」が本人のものでもヒット、またこれをカヴァーしたブラザー・トゥ・ブラザーのものが1974年にソウルチャートで9位を記録する大ヒットになり、一般的知名度を得る。さらに1975年、自ら歌った「ヨハネスブルグ(Johannesburg)」が初ヒット。そのほか「エンジェル・ダスト」「ショー・ビズネス」「Bムーヴィー」「リ・ロン」などがヒットした。
また、シングル・ヒットはしなくとも、アルバムがヒットし、そこに収録されていた「レヴォリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド」などは、その後も繰り返し紹介され隠れたヒットになっている。
The Revolution Will Not Be Televised- Gil Scott... 投稿者 larsen42
http://youtu.be/_b2F-XX0Ol0
「ヨハネスブルグ」は,当時まだアパルトヘイト(黒人分離政策)が行われていた南アフリカを批判するもので、アパルトヘイトについて主張する音楽界からのメッセージとしてはかなり初期のものだった。
彼は1979年の『ノーニュークス(原子力反対)』コンサートにも参加。スリーマイル島の事故を受けて、反原発、安全なエネルギーの必要性を訴えた。ヘロンは常にレーガン大統領と保守派政治家に対して、批判的だった。
1985年、ブラック系アーティストが多数集合した反アパルトヘイト・ユニット、アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイトのアルバム『サン・シティー』にも楽曲を提供している。
1980年代に入ってからは、ヒップホップ系のアーティスト、特にラッパーたちから尊敬されるようになり、彼自身が「ゴッドファーザー・オブ・ラップ」などと称されることもあった。
しかし、そんな中、彼は既存のラッパーたちに批判的メッセージも送っていた。インタヴューで「彼らはもっと音楽を勉強しないと。僕は詩人になる前にいくつものバンドで音楽を経験してきた。音楽に言葉をただ乗せるだけと、音楽の中に同じ言葉を染み込ませること(blending those same words into the music)は、大きく違う。(今のラップには)ほとんどユーモアがない。ただスラングで話し言葉を並べているだけで、その人物の中身がほとんど見えてこない。見えるのは、ジェスチャーだけだ」と語る。
2001年、コカイン所持で刑務所入り。2002年に出所後も音楽活動を精力的に再開。しかし、2006年7月5日、再度コカイン所持で再逮捕。2007年5月23日に執行猶予で保釈。この頃までにヘロンは、HIVに感染していることが疑われた。その後もライヴ活動を行ってきた。死因は明らかにされていないが、ヘロイン中毒、またはHIV関連のものかもしれない。
2010年2月9日、およそ16年ぶりの新録による新曲のアルバム『アイム・ニュー・ヒア』をリリース、ファンを驚かせていた。
ヘロンの作品はカニエ・ウェスト、グランド・ピューバ、ブラック・スター、モス・デフら多くのヒップホップ・アーティストにサンプリングされている。
1993年、M&Iの招聘で来日している。
■ 最新作
■ ベスト
■ イッツ・ユア・ワールド「ザ・ボトル」収録
■ DVD
OBITUARY>Scott-Heron, Gill>April 1, 1949 – May 27, 2011, 62 year old
(エヴァ・キャシディー、パート2は、明日以降におおくりします)
【Gil Scott-Heron Dies At 62】
訃報。
アメリカの黒人吟遊詩人、「ブラック・ボブ・ディラン」「ゴッドファーザー・オブ・ヒップホップ・ラップ」などと呼ばれているシンガー・ソングライター、ギル・スコット・ヘロンが、2011年5月27日(金)、ニューヨークのセント・ルークス病院で死去した。62歳だった。ヨーロッパ・ツアーから戻ってから体調を崩していたという。死因は発表されていない。
スコット・ヘロンは、1970年代から独自の視点で社会を描く作品を多数輩出し、自ら歌と「語り(スポークン・ワード)」をミックスした独自のスタイルでレコーディング。そのメッセージから、ブラック・カルチャーの重要な一役を担った。代表作には、「レヴリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド(革命はテレビ中継されない)」、「ザ・ボトル」など。音楽的には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブルーズなどを融合。これにナレーションのような語りをいれ、一種の「ポエトリー・リーディング」(詩朗読)をレコード化して独自の世界を作り出した。
それゆえに、後に大きな潮流となるヒップホップのラップに多大な影響を与えた。特にカニエ・ウェストがヘロンをお気に入りでいくつもの曲をサンプリングなどで使用。カニエを通じて、若い世代でも人気を集めていた。2010年、およそ16年ぶりの新作アルバム『アイム・ニュー・ヒア』を出していた。
すでにアメリカ音楽業界の多数の人たちから追悼コメントなどが、ツイッターなどで寄せられている。
パブリック・エナミーのチャックD。「GSH(ギル・スコット・ヘロン)は、世界について、ヒップホップの世界に素晴らしいテンプレート(基準、基本パターン)を与えてくれた」「驚愕しているのは、ちょうど彼の次のアルバム用に1曲書き、ゲスト・ヴォーカルをレコーディングしたところだったからだ。このことから、本当に時は貴重だと思わせられる」
先の「レヴォリューション…」は、マスメディアでは大事なことは何も放送されない、くだらないことしか放送されない、というマスメディア、特にテレビに対する強烈な批判曲だったが、そのタイトルは、時代も流れ、「革命はインターネットで生中継」される時代になった。さすがに、「革命、ネットで生中継」は慧眼のギル・スコット・ヘロンでさえも予期できなかっただろうが、その強烈な本質的なメッセージはいまだに有効だ。
++++
「キング・オブ・ヒップホップ・ラップ」
評伝。
まさにヒップホップの世界で言うところのラップという固有名詞がない頃からのオリジナル・ラッパーの一人が、ギル・スコット・ヘロンだ。当時は、彼のようなスタイルは、「スポークン・ワード」「ポエトリー・リーディング(詩の朗読)」「ナレーティヴ」などと呼ばれていた。ときに、しっとり、ときにあじり、抑揚をつけて語るそのスタイルは、のちのヒップホップの世界で形式を確固たるものにするラップの原形ともいえる。ソウルの世界ではルー・ロウルズがこうしたナレーティヴ、スポークン・ワード、ラップが得意だったが、ルーがエンタテインメント系でラップをおしゃれに聴かせたのに対し、ギル・スコット・ヘロンは、社会派、急進派、革新派としてラップ、語りを聴かせ、そのスタンスを鮮明にしていた。
ギル・スコット・ヘロンは1949年4月1日イリノイ州シカゴ生まれ。テネシー州ジャクソン育ち。父親はジャマイカ系、母親はアフリカン・アメリカン。両親の離婚にともない13歳のとき(1962年)、ニューヨークへ。その後ペンシルヴェニア州のリンカーン大学へ進学、ここでミュージシャンのブライアン・ジャクソンと知り合う。大学を2年ほどで中退した彼は、1970年、小説『ザ・ヴァルチャー』、『ザ・ニガー・ファクトリー』を出版。この頃、フライング・ダッチマン・レコードと契約、シンガー・ソングライターとしてもデビュー。すでに社会派メッセージが色濃くでた作品だった。さらに、後にブライアン・ジャクソンと組んで、二人名義のアルバムをアリスタ・レコードからリリース、これが徐々に大評判となっていく。アリスタには1985年まで在籍。
レコーディングにつきあったミュージシャンは、ロン・カーター(ベース)、バーナード・パーディー(ドラムス)、ヒューバート・ロウズ(サックスなど)などそうそうたるメンバーだった。
これらの作品群の中から当時のアルコール中毒問題を歌った「イン・ザ・ボトル」が本人のものでもヒット、またこれをカヴァーしたブラザー・トゥ・ブラザーのものが1974年にソウルチャートで9位を記録する大ヒットになり、一般的知名度を得る。さらに1975年、自ら歌った「ヨハネスブルグ(Johannesburg)」が初ヒット。そのほか「エンジェル・ダスト」「ショー・ビズネス」「Bムーヴィー」「リ・ロン」などがヒットした。
また、シングル・ヒットはしなくとも、アルバムがヒットし、そこに収録されていた「レヴォリューション・イズ・ノット・テレヴァイズド」などは、その後も繰り返し紹介され隠れたヒットになっている。
The Revolution Will Not Be Televised- Gil Scott... 投稿者 larsen42
http://youtu.be/_b2F-XX0Ol0
「ヨハネスブルグ」は,当時まだアパルトヘイト(黒人分離政策)が行われていた南アフリカを批判するもので、アパルトヘイトについて主張する音楽界からのメッセージとしてはかなり初期のものだった。
彼は1979年の『ノーニュークス(原子力反対)』コンサートにも参加。スリーマイル島の事故を受けて、反原発、安全なエネルギーの必要性を訴えた。ヘロンは常にレーガン大統領と保守派政治家に対して、批判的だった。
1985年、ブラック系アーティストが多数集合した反アパルトヘイト・ユニット、アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイトのアルバム『サン・シティー』にも楽曲を提供している。
1980年代に入ってからは、ヒップホップ系のアーティスト、特にラッパーたちから尊敬されるようになり、彼自身が「ゴッドファーザー・オブ・ラップ」などと称されることもあった。
しかし、そんな中、彼は既存のラッパーたちに批判的メッセージも送っていた。インタヴューで「彼らはもっと音楽を勉強しないと。僕は詩人になる前にいくつものバンドで音楽を経験してきた。音楽に言葉をただ乗せるだけと、音楽の中に同じ言葉を染み込ませること(blending those same words into the music)は、大きく違う。(今のラップには)ほとんどユーモアがない。ただスラングで話し言葉を並べているだけで、その人物の中身がほとんど見えてこない。見えるのは、ジェスチャーだけだ」と語る。
2001年、コカイン所持で刑務所入り。2002年に出所後も音楽活動を精力的に再開。しかし、2006年7月5日、再度コカイン所持で再逮捕。2007年5月23日に執行猶予で保釈。この頃までにヘロンは、HIVに感染していることが疑われた。その後もライヴ活動を行ってきた。死因は明らかにされていないが、ヘロイン中毒、またはHIV関連のものかもしれない。
2010年2月9日、およそ16年ぶりの新録による新曲のアルバム『アイム・ニュー・ヒア』をリリース、ファンを驚かせていた。
ヘロンの作品はカニエ・ウェスト、グランド・ピューバ、ブラック・スター、モス・デフら多くのヒップホップ・アーティストにサンプリングされている。
1993年、M&Iの招聘で来日している。
■ 最新作
アイム・ニュー・ヒア
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ギル・スコット・ヘロン
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■ ベスト
ベスト・オブ・ギル・スコット・ヘロン
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ギル・スコット・ヘロン
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■ イッツ・ユア・ワールド「ザ・ボトル」収録
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ギル・スコット-ヘロン
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■ DVD
ギル・スコット・ヘロン:ブラック・ワックス~ライブ・イン・ワシントンD.C.~ [DVD]
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OBITUARY>Scott-Heron, Gill>April 1, 1949 – May 27, 2011, 62 year old