2011年05月28日(土) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
★エヴァ・キャシディー(パート1):ワシントンDC最高の悲劇のシンガー
テーマ:アーティスト関連
★エヴァ・キャシディー(パート1):ワシントンDC最高の悲劇のシンガー
【Eva Cassidy: The Saddest Great Singer In Washinton DC】
故人。
一昨日ユーチューブ映像で「タイム・アフター・タイム」をご紹介したエヴァ・キャシディーは日本ではほとんど無名のシンガーだ。日本盤は一度もでていないので、若干の輸入盤が出回ったほど。しかも、ほとんど新譜もなく、コンスタントにリリースがないので、知名度もあがらない。なによりも、彼女がすでに若くして亡くなったシンガーということも大きい。彼女のことは数年前に知って、いつかゆっくり紹介しようと思っていたので、「タイム・アフター・タイム」ででてきたので、これを機に少し書いてみたい。
僕が最初に彼女の歌を知ったのは、スティングの「フィールズ・オブ・ゴールド」のカヴァーだった。透き通った声が大変印象的で、すぐにCDを何枚か入手。10年くらい前のことか。CDにはいろいろな曲のカヴァーが入っていた。しかし、調べるとその時点で、もう彼女は故人だった。
ワシントンDC。
エヴァ・キャシディーは1963年2月2日、アメリカ東部ワシントンDC生まれ。4人兄弟の3番目。父はスコットランド/アイルランド系、母はドイツ生まれ。子供の頃から音楽や絵画など芸術に興味を持ち、9歳の頃から父親が彼女にギターを教えるようになった。11歳の頃にすでにワシントンDCのローカル・バンド、イージー・ストリートに参加。以後いくつものバンドに参加したり、スタジオでのレコーディング・セッションに参加するようになる。
そんな中で、ワシントンDCのゴー・ゴー・サウンドのEU(エクスペリエンス・アンリミテッド)や、チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズらと接点を持つようになり、チャック・ブラウンが彼女の声を気に入り、かわいがられるようになった。そして、これがチャックとエヴァのデュエット・アルバム『ジ・アザー・サイド』につながる。1992年、彼女が29歳のときのことだった。(ちなみに、エヴァはEUの「リヴィング・ラージ」でもバックコーラスをやっているという)
このアルバムは、チャック・ブラウンの作品を出しているレコード会社からリリースされた。カヴァー曲中心のアルバムで、ここに収められた「オーヴァー・ザ・レインボー(虹のかなたに)」、「フィーヴァー」、「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」などが地元を中心に話題となった。チャックとエヴァで、この時期、地元でアル・グリーンやネヴィル・ブラザースの前座を務めたこともあるという。
1993年にはワシントンDCエリアの音楽賞「ワミー・アワード」で「ヴォーカリスト・ジャズ/トラディショナル」部門を獲得。1994年には同賞受賞式で「オーヴァー・ザ・レインボー」を歌い、これも大喝采を浴びた。その後、ブルーノートと契約、ピーセス・オブ・ア・ドリームと共演したアルバムを出し、ツアーにもでた。
ところが、この頃、エヴァは背中にできたほくろを除去する手術を受けるが、このときは大事には至らなかった。
皮膚癌。
1996年5月にはワシントンDCの有名なライヴ・ハウス、ブルース・アレイでのライヴを収録したアルバム『ライヴ・アット・ブルース・アレイ』をリリース。当初、本人はその出来にリリースを躊躇したが、リリースされたところ、ワシントン・ポストをはじめひじょうに前向きな評価を得て、少しずつ知名度もあがり、以後も活動を続けた。
だが、その『ライヴ』アルバムをプロモーションしていた1996年7月、彼女はお尻に痛みを感じ、それが続いたため、検査をしたところ、黒色腫という一種の皮膚癌になっていることがわかった。さらに精密検査をすると、この癌が肺や骨にも転移しており、その時点で余命3-5ヶ月だと診断され、エヴァはそれを告知された。
手術ができないということで、かなり強い抗癌治療を行ったが、同時に体力も落ちていった。痛みも継続し、治療のために頭髪はなくなっていった。この頃までに、ワシントンDCの音楽業界ではエヴァの病気がかなり悪いということが知れ渡り、9月に、保険に入っていなかったエヴァのために治療費を集めることと彼女を励ますトリビュート・ライヴが行われることになった。
これを聞いたエヴァは大変喜んだが、自分がそれを見に行くことすらできないのではないかと思った。しかし、抗がん剤のために体力の弱っていた彼女は、なんとライヴの2日前から抗癌治療を一旦やめ、体力の回復を図ったのだ。
1996年9月17日、チャック・ブラウンを始めとする友人ミュージシャンたちが、ライヴ・ハウス「ザ・バイヨー」に集まり、エヴァのために多くの作品を歌った。エヴァはすでに車椅子で、歩くにも杖が必要になっていたが、友人たちの力を借りながら気丈にもステージに上がり、スツールに座り、このとき、友人、ファン、家族の前で「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」を歌った。これが、彼女が人前でパフォーマンスする最後となった。そして、その後、ジョンズ・ホプキンス病院に運ばれた。
1996年1月のときの「What A Wonderful World」。ママとパパに捧げている
http://youtu.be/uEBBGSgO16M
この日を境に、エヴァの体力は落ちていった。ライヴの日が彼女がもっとも輝いた日で、おそらくそのために力の限りを尽くしたのだろう。
エヴァはそのわずか2ヶ月もしない1996年11月2日、自宅で息を引き取った。33歳という若さだった。
エヴァの遺体は故人の意思で火葬され、その遺灰はメリーランド州のセントメリー川ウォーターシェド公園の水際に撒かれた。
しかし、この時点でも、エヴァ・キャシディーはワシントンDCでもほんの一部の音楽関係者と一部のファンだけが知る存在だった。彼女はかつて、「自分のCDを出したところで、誰が買ってくれるの?」とまるで「売れる」ことに無関心だった。
(この項つづく)
フィールズ・オブ・ゴールド
http://youtu.be/SfPZ_HpnIVY
■ ライヴ・アット・ブルース・アレイ (これも大きなきっかけとなった作品)
ARTIST>Cassidy, Eva
【Eva Cassidy: The Saddest Great Singer In Washinton DC】
故人。
一昨日ユーチューブ映像で「タイム・アフター・タイム」をご紹介したエヴァ・キャシディーは日本ではほとんど無名のシンガーだ。日本盤は一度もでていないので、若干の輸入盤が出回ったほど。しかも、ほとんど新譜もなく、コンスタントにリリースがないので、知名度もあがらない。なによりも、彼女がすでに若くして亡くなったシンガーということも大きい。彼女のことは数年前に知って、いつかゆっくり紹介しようと思っていたので、「タイム・アフター・タイム」ででてきたので、これを機に少し書いてみたい。
僕が最初に彼女の歌を知ったのは、スティングの「フィールズ・オブ・ゴールド」のカヴァーだった。透き通った声が大変印象的で、すぐにCDを何枚か入手。10年くらい前のことか。CDにはいろいろな曲のカヴァーが入っていた。しかし、調べるとその時点で、もう彼女は故人だった。
ワシントンDC。
エヴァ・キャシディーは1963年2月2日、アメリカ東部ワシントンDC生まれ。4人兄弟の3番目。父はスコットランド/アイルランド系、母はドイツ生まれ。子供の頃から音楽や絵画など芸術に興味を持ち、9歳の頃から父親が彼女にギターを教えるようになった。11歳の頃にすでにワシントンDCのローカル・バンド、イージー・ストリートに参加。以後いくつものバンドに参加したり、スタジオでのレコーディング・セッションに参加するようになる。
そんな中で、ワシントンDCのゴー・ゴー・サウンドのEU(エクスペリエンス・アンリミテッド)や、チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズらと接点を持つようになり、チャック・ブラウンが彼女の声を気に入り、かわいがられるようになった。そして、これがチャックとエヴァのデュエット・アルバム『ジ・アザー・サイド』につながる。1992年、彼女が29歳のときのことだった。(ちなみに、エヴァはEUの「リヴィング・ラージ」でもバックコーラスをやっているという)
このアルバムは、チャック・ブラウンの作品を出しているレコード会社からリリースされた。カヴァー曲中心のアルバムで、ここに収められた「オーヴァー・ザ・レインボー(虹のかなたに)」、「フィーヴァー」、「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」などが地元を中心に話題となった。チャックとエヴァで、この時期、地元でアル・グリーンやネヴィル・ブラザースの前座を務めたこともあるという。
1993年にはワシントンDCエリアの音楽賞「ワミー・アワード」で「ヴォーカリスト・ジャズ/トラディショナル」部門を獲得。1994年には同賞受賞式で「オーヴァー・ザ・レインボー」を歌い、これも大喝采を浴びた。その後、ブルーノートと契約、ピーセス・オブ・ア・ドリームと共演したアルバムを出し、ツアーにもでた。
ところが、この頃、エヴァは背中にできたほくろを除去する手術を受けるが、このときは大事には至らなかった。
皮膚癌。
1996年5月にはワシントンDCの有名なライヴ・ハウス、ブルース・アレイでのライヴを収録したアルバム『ライヴ・アット・ブルース・アレイ』をリリース。当初、本人はその出来にリリースを躊躇したが、リリースされたところ、ワシントン・ポストをはじめひじょうに前向きな評価を得て、少しずつ知名度もあがり、以後も活動を続けた。
だが、その『ライヴ』アルバムをプロモーションしていた1996年7月、彼女はお尻に痛みを感じ、それが続いたため、検査をしたところ、黒色腫という一種の皮膚癌になっていることがわかった。さらに精密検査をすると、この癌が肺や骨にも転移しており、その時点で余命3-5ヶ月だと診断され、エヴァはそれを告知された。
手術ができないということで、かなり強い抗癌治療を行ったが、同時に体力も落ちていった。痛みも継続し、治療のために頭髪はなくなっていった。この頃までに、ワシントンDCの音楽業界ではエヴァの病気がかなり悪いということが知れ渡り、9月に、保険に入っていなかったエヴァのために治療費を集めることと彼女を励ますトリビュート・ライヴが行われることになった。
これを聞いたエヴァは大変喜んだが、自分がそれを見に行くことすらできないのではないかと思った。しかし、抗がん剤のために体力の弱っていた彼女は、なんとライヴの2日前から抗癌治療を一旦やめ、体力の回復を図ったのだ。
1996年9月17日、チャック・ブラウンを始めとする友人ミュージシャンたちが、ライヴ・ハウス「ザ・バイヨー」に集まり、エヴァのために多くの作品を歌った。エヴァはすでに車椅子で、歩くにも杖が必要になっていたが、友人たちの力を借りながら気丈にもステージに上がり、スツールに座り、このとき、友人、ファン、家族の前で「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」を歌った。これが、彼女が人前でパフォーマンスする最後となった。そして、その後、ジョンズ・ホプキンス病院に運ばれた。
1996年1月のときの「What A Wonderful World」。ママとパパに捧げている
http://youtu.be/uEBBGSgO16M
この日を境に、エヴァの体力は落ちていった。ライヴの日が彼女がもっとも輝いた日で、おそらくそのために力の限りを尽くしたのだろう。
エヴァはそのわずか2ヶ月もしない1996年11月2日、自宅で息を引き取った。33歳という若さだった。
エヴァの遺体は故人の意思で火葬され、その遺灰はメリーランド州のセントメリー川ウォーターシェド公園の水際に撒かれた。
しかし、この時点でも、エヴァ・キャシディーはワシントンDCでもほんの一部の音楽関係者と一部のファンだけが知る存在だった。彼女はかつて、「自分のCDを出したところで、誰が買ってくれるの?」とまるで「売れる」ことに無関心だった。
(この項つづく)
フィールズ・オブ・ゴールド
http://youtu.be/SfPZ_HpnIVY
■ ライヴ・アット・ブルース・アレイ (これも大きなきっかけとなった作品)
Live at Blues Alley
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Eva Cassidy
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ARTIST>Cassidy, Eva
1 ■ご紹介いただき嬉しかったです
いつも楽しく読ませていただいています。つい最近、偶然に彼女の唄うWhat A Wonderful Worldを聴き心を打たれ「Live at Blues Alley」と「Songbird」を購入したばかりでした。皮膚がんで亡くなったとは知っていましたが、非常に詳しいヒストリーを紹介していただき、また感動です。