2011年01月25日(火) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
★△ナイル・ロジャーズ「癌惑星を歩いて」~第6回&第7回&第8回&第9回
テーマ:Walking On Planet C
★△プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
【Walking on Planet C by Nile Rodgers 】
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
闘病記。
ナイル・ロジャーズの癌闘病記、1月21日から24日までの4日分、写真・キャプション付きでどうぞ。徐々に、ナイルによるニューヨーク文化・巡りみたいな様相になってきて、そうした側面からもおもしろくなっています。そして、彼は詩人ですね。4日分お楽しみください。
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第6回 Motivation 動機
Written on Friday, 21 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 21 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/231-walking-on-planet-c-motivation
ウォーキングにでる直前、僕は朝のニュースに釘付けになった。3歳の女の子が乳房除去手術をしたという。乳がんを患ったが手術は成功、そして、今4歳になった。なにより早期発見がカギだ。数年前、ケイティー・クーリック(テレビ司会者)が、テレビで大腸の内視鏡検査は何も恥ずかしいものではないことを見せた。僕もその検査をしたので、彼女にどれだけ感謝していることか。そして、彼女がこの「セイヴ・ザ・レインフォーレスト・ベネフィット・コンサート」(熱帯雨林を救うためのベネフィット・コンサート)のリハーサル中に、SIRスタジオを訪れてくれたことにも感謝している。
テレビ司会者ケイティー・クーリー、後ろに見えるのは左がエルトン・ジョン、右がスティング
あの頃、SIRスタジオは「ローズランド・ダンス・シティー」と同じ西52丁目にあった。ローズランドの楽屋入口はディスコ「スタジオ54」と同じ53丁目側にあった。「スタジオ54」のエアコン室外機もそこにあったのだ! 1970年代に流行のスポットだった「スタジオ54」に(エアコンの)ダクトからなんとか入ろうとした男が、その中で死んでいた。それに比べれば、僕はラッキーだった。ドアマンが「ファック・オフFuck off(消えうせろ)」と言ってくれたおかげで、シックの大ヒット「ル・フリーク」の「フリーク・アウト(Freak out)」というフレーズを思いついたのだから。
このダクトからスタジオ54に入ろうとして死んだ男がいた
僕は56丁目に向かい、カーネギー・ホールの楽屋入口に入った。昨年(2010年)6月、僕はここで、ブルース・スプリングスティーン、レディー・ガガ、サー・エルトン・ジョン、スティングらと一緒に演奏し、予備のギターに多くの素晴らしいアーティストたちのサインをしてもらった。カーネギー・ホールは、紛失や盗難になんら責任を持ってくれないが、幸運なことに、僕のギターは紛失することも、盗まれることもなかった。癌が僕の命を盗もうとしたが、自己責任で奪い返そうとしている。だから、僕は復活への道として毎朝ウォーキングをするのだ。
ブルース・スプリングスティーン
左・ローズランドの楽屋入口、右・みんなからサインをもらった予備のギター
左・カーネギーホールは紛失・盗難に責任を持ちません 右・カーネギーホール楽屋入口
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Walking on Planet C by Nile Rodgers @nilerodgers
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
第7回 Filmed in the Hood 界隈で撮影された映画
Written on Saturday, 22 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 22 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/232-walking-on-planet-c-filmed-in-the-hood
今朝のニューヨークはずいぶん深い雪に覆われた。いつも僕は雪が好きだが、なぜかわからないが今朝は落ち込んでしまった。僕の漠然とした精神的落ち込みは癌体験のもうひとつの恐ろしい影だ。
急いで洋服を着て、できる限り早く家を出て、朝のウォーキングに向かった。早いところ朝のウォーキングで救われたいと思ったのだ。歩き始めてすぐに、いい楽曲、優れた映画、素晴らしい思い出が脳裏に浮かんだ。「大またで歩く月の上…」(歌詞~"Giant steps are what you take... walking on the moon"~) ポリースでヒットしたスティングが書いた曲の詞だが、これは僕のちょっと感傷的な朝のウォーキングのテーマ曲になった。
僕自身が撮影したスティングが歌っているところ
天を見上げると、ペントハウスの俳優、アンソニー・マイケル・ホール(『シクスティーン・キャンドルズSixteen Candles邦題:すてきな片想い』[1984年]のオタク役)などかつての深夜族たちの光景が眼に浮かんだ。思い出の情景が風に舞う雪の向こうに辛うじて見えたかのようだった。さらに72丁目を西に向かい、僕は映画『ザ・ウォーリアーズ』(訳注1)で使われた地下鉄駅の建物を撮影した。白く塗ったバットで武装したストリートのギャングたちザ・ベースボール・フューリーズが、彼らのライヴァル、ザ・ウォーリアーズを、そこから71丁目まで追いかけていった場所だ。
左・夜明け前の雪に煙るアンソニー・マイケル・ホールの1980年代の家の外観 右・地下鉄駅・ここからベースボール・フューリーズがウォーリアーズを追いかけた
日の出までに雪は止み、73丁目とブロードウェイの角にあるニードル・パークのジュゼッペ・ヴェルディー(訳注2)の銅像を撮ったみた。1970年代のアル・パチーノの映画『ザ・パニック・イン・ニードル・パークThe Panic in Needle Park邦題:哀しみの街かど』(1971年)は、そこにたむろしていたジャンキー(麻薬中毒者)たちの映画だ。実は、僕の父もジャンキーでそこにたむろしていた。一度は父が95丁目とブロードウェイにある映画館の前の排水溝で横になっているのを見つけたこともあった。当時その映画館は、単に「セリア」と呼ばれていた。そこは今では、『スタートレック』のミスター・スポックで有名になった「レオナード・ニモイ・セリア(劇場)」と呼ばれている。「長寿と繁栄を」は、ミスター・スポックのヴァルカン式あいさつ(訳注3)だが、僕もそうするつもりだ。ようこそ、惑星地球へ。
左・ニードルパーク 右・「レオナード・ニモイ・セリア(劇場)」僕の父の思い出に撮影した写真
訳注1 1979年のアメリカ映画。ウォルター・ヒル監督。
訳注2 ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi, 1813年10月10日 - 1901年1月27日)はイタリアオペラの作曲家。
訳注3 人指し指と中指・薬指と小指を付け、中指と薬指の間と親指を開いて、相手に掌を見せ「長寿と繁栄を」"Live long and prosper"と言うヴァルカン式挨拶(ヴァルカン・サリュート)は有名。
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Walking on Planet C by Nile Rodgers @nilerodgers
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
第8回Stayin' Alive 「ステイン・アライヴ」
Written on Sunday, 23 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 23 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/233-walking-on-planet-c-stayin-alive
完全防寒で自宅出発
今朝の気温は、華氏12度(摂氏では約マイナス12度)。昨夜寝る前に、ちょっとしたパニック発作になった。僕の手術後の症状は期待したほどの早さではよくなっていないようだ。だが、ウォーキングすることでそうした懸念が晴れることもわかっている。
ビージーズの「ステイン・アライヴ」(訳注1)をハミングしながら自宅を出た。曲は、今まで見たことがなかったレコード店にたどり着いたところで止まった。前世紀からの遺跡と言っても過言ではない「ウェストサイダー・レコーズ」という店だった。いい感じでこの店の目前で僕の人生がフラッシュバックした。音楽と文学の世界で僕が気に入っているものほとんど全てがそこにはあった。ストラヴィンスキー、ニューヨーカー誌のマンガ集、ドゥーワップ(のボックスセット)、多様性のあるジャズ、それらすべてがこの天国のようなレコード店に所狭しとあった。
ウェストサイダー・レコード店
若かった頃、ジャズとクラシック・ギターを学んだ。僕はたった一度だけクラシックのリサイタルをリンカーン・センターにある演技芸術のためのニューヨーク公立図書館で行ったことがある。僕はその演目をうまくプレイできたとは思うが、ジャズの方がもっと僕にはあっていた。そして、ジャズからR&Bに興味が移り、それが僕のバンド、シックに結びついた。
演技芸術のためのニューヨーク公立図書館
シックの成功はまさに好き勝手やり放題の時代のことだった。その結果多くの人が死んだ。そこには僕も含まれる。クラシック音楽風ファッションで、リンカーン・センターの向かいにあった80年代に住んでいたアパートで僕は一度急死した。だが、幸運なことに、そこはルーズヴェルト病院の向かいだった。何度も心電図は止まったが、最終的に心臓の鼓動が復活し安定した。医師は僕を生き返らせるのがどれほど大変だったか話してくれた。生きるために一生懸命働けとも言われた。僕は今でもその時の医師との約束を守ろうとしている。
左・ディスコ時代人気絶頂だったシック 右・リンカーン・センターの向かいにあった80年代に住んでいたアパート
左・ストラヴィンスキー、ニューヨーカーのマンガ集、ドゥーワップのコンピレーション 右・僕は医師との約束を守り続けよう
訳注1 ビージーズの1977年から1978年にかけての大ヒット。映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』に収録。
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Walking on Planet C by Nile Rodgers @nilerodgers
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
第9回Crazy Cancer Thoughts 癌特有のクレイジーな思い
Written on Sunday, 24 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 24 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/234-walking-on-planet-c-crazy-cancer-thoughts
今朝日課のウォーキングを始めたとき、外は華氏16度(摂氏マイナス9度)だったが、僕はラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティー」を歌っていた。奇妙な感じだ。きっと、僕は何かニューヨークという街か、あるいは、夏の白昼夢についてでも言葉を発したかったのかもしれない。この曲はジョン・セバスチャンが歌っていたが、彼も僕同様ニューヨーカーだ。僕はこの曲を、この街、僕の人生、そして癌摘出手術後の最初の食事と同じくらい好きで、高く評価している。
左・ジョン・セバスチャン 昨年一緒にステージに立った 右・癌手術後、初の食事
今日は癌が僕の体と心に宿って以来初めて平和な朝を迎えることができた。救急車の音が行き交い、お互い十代の頃から知っている友人のことを考えた。彼は医者で、作家で、癌からのサヴァイヴァー(生存者)だ。彼は僕が癌になったことを知って見舞いに来てくれた。そして、癌になるとさまざまなクレイジーな考えが頭に浮かんでくることを解説してくれた。一日一緒に過ごして、僕の恐怖を和らげてくれた彼の別れ際の言葉がこうだった。「ようこそ、プラネットC(癌惑星)の人生へ」。
左・僕とエリック・クラプトン 右・僕とデイヴィッド・ボウイ
言葉には力がみなぎっている。僕はデュオ・チーム、モンゴメリー・ジェントリー(訳注1)の一人エディー・モンゴメリーが、ツアー日程を発表していたのを読んだ。(http://bit.ly/gQsAS) エディーも僕と同じタイプの癌になり、同じ手術を受けていたのだ。記事をいくつか読んで彼の手術日からライヴ日程までの時間を計算すると、約6週間だった。僕は彼の日程と自分のそれを重ね合わせると、何かほっとしたのだ。これは癌特有のクレイジーな考えなのだろうか?
あらゆるケースは似ているが、独特でもある。デイヴィッド・ボウイの言葉を借りれば、「同じだが、違う」ということになる。これは、1983年彼と一緒にアルバム『レッツ・ダンス』を作った時に語ってくれた言葉と同じものだ。『レッツ・ダンス』は、いわゆる「ディスコ・サックス・ムーヴメント」(ディスコはもう終わったという風潮)(注2)がディスコ・ブームに楔(くさび)を打ち込んだ後、音楽業界において僕に第二の人生を与えてくれた。新しく生まれ変わった僕は、その後、インエクセス、エリック・クラプトン、デュラン・デュラン、マドンナ、ミック・ジャガー、グレース・ジョーンズ、ザ・ヴォーン・ブラザーズ、その他多くのアーティストたちと仕事をする機会に恵まれた。
昨年4月の日本のファン
毎年4月、僕は自分の元パートナー、バーナード・エドワーズをトリビュートするために、日本でライヴを行う。バーナードは、1996年、日本で亡くなった。僕は今年もまた4月に日本に行くつもりだ。4月の訪日も、癌特有のクレイジーな思いかな?
左・僕とサイモン・ルボン 右・僕とマドンナ、1985年のライヴエイド
左・僕とグレイス・ジョーンズ 右・僕とナード(バーナード)1996年、武道館
(訳注1) ケンタッキー出身のカントリー・アーティスト
(訳注2) 1980年代に入ると、70年代に隆盛を誇ったディスコの人気が急速に落ちた。メディアがいっせいに「ディスコは終わった」とはやしたて、いわゆるそれまでディスコで成功を収めてきたアーティストたちに強烈な逆風が吹いた。これがよく言われる「ディスコ・サックス・ムーヴメント」だ。シックもその逆風にさらされ、人気が急速に落ちていった。
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(ブログの翻訳、写真使用については、ナイル・ロジャーズ氏の承諾を得ています)
【Walking on Planet C by Nile Rodgers 】
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
闘病記。
ナイル・ロジャーズの癌闘病記、1月21日から24日までの4日分、写真・キャプション付きでどうぞ。徐々に、ナイルによるニューヨーク文化・巡りみたいな様相になってきて、そうした側面からもおもしろくなっています。そして、彼は詩人ですね。4日分お楽しみください。
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第6回 Motivation 動機
Written on Friday, 21 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 21 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/231-walking-on-planet-c-motivation
ウォーキングにでる直前、僕は朝のニュースに釘付けになった。3歳の女の子が乳房除去手術をしたという。乳がんを患ったが手術は成功、そして、今4歳になった。なにより早期発見がカギだ。数年前、ケイティー・クーリック(テレビ司会者)が、テレビで大腸の内視鏡検査は何も恥ずかしいものではないことを見せた。僕もその検査をしたので、彼女にどれだけ感謝していることか。そして、彼女がこの「セイヴ・ザ・レインフォーレスト・ベネフィット・コンサート」(熱帯雨林を救うためのベネフィット・コンサート)のリハーサル中に、SIRスタジオを訪れてくれたことにも感謝している。
テレビ司会者ケイティー・クーリー、後ろに見えるのは左がエルトン・ジョン、右がスティング
あの頃、SIRスタジオは「ローズランド・ダンス・シティー」と同じ西52丁目にあった。ローズランドの楽屋入口はディスコ「スタジオ54」と同じ53丁目側にあった。「スタジオ54」のエアコン室外機もそこにあったのだ! 1970年代に流行のスポットだった「スタジオ54」に(エアコンの)ダクトからなんとか入ろうとした男が、その中で死んでいた。それに比べれば、僕はラッキーだった。ドアマンが「ファック・オフFuck off(消えうせろ)」と言ってくれたおかげで、シックの大ヒット「ル・フリーク」の「フリーク・アウト(Freak out)」というフレーズを思いついたのだから。
このダクトからスタジオ54に入ろうとして死んだ男がいた
僕は56丁目に向かい、カーネギー・ホールの楽屋入口に入った。昨年(2010年)6月、僕はここで、ブルース・スプリングスティーン、レディー・ガガ、サー・エルトン・ジョン、スティングらと一緒に演奏し、予備のギターに多くの素晴らしいアーティストたちのサインをしてもらった。カーネギー・ホールは、紛失や盗難になんら責任を持ってくれないが、幸運なことに、僕のギターは紛失することも、盗まれることもなかった。癌が僕の命を盗もうとしたが、自己責任で奪い返そうとしている。だから、僕は復活への道として毎朝ウォーキングをするのだ。
ブルース・スプリングスティーン
左・ローズランドの楽屋入口、右・みんなからサインをもらった予備のギター
左・カーネギーホールは紛失・盗難に責任を持ちません 右・カーネギーホール楽屋入口
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Walking on Planet C by Nile Rodgers @nilerodgers
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
第7回 Filmed in the Hood 界隈で撮影された映画
Written on Saturday, 22 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 22 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/232-walking-on-planet-c-filmed-in-the-hood
今朝のニューヨークはずいぶん深い雪に覆われた。いつも僕は雪が好きだが、なぜかわからないが今朝は落ち込んでしまった。僕の漠然とした精神的落ち込みは癌体験のもうひとつの恐ろしい影だ。
急いで洋服を着て、できる限り早く家を出て、朝のウォーキングに向かった。早いところ朝のウォーキングで救われたいと思ったのだ。歩き始めてすぐに、いい楽曲、優れた映画、素晴らしい思い出が脳裏に浮かんだ。「大またで歩く月の上…」(歌詞~"Giant steps are what you take... walking on the moon"~) ポリースでヒットしたスティングが書いた曲の詞だが、これは僕のちょっと感傷的な朝のウォーキングのテーマ曲になった。
僕自身が撮影したスティングが歌っているところ
天を見上げると、ペントハウスの俳優、アンソニー・マイケル・ホール(『シクスティーン・キャンドルズSixteen Candles邦題:すてきな片想い』[1984年]のオタク役)などかつての深夜族たちの光景が眼に浮かんだ。思い出の情景が風に舞う雪の向こうに辛うじて見えたかのようだった。さらに72丁目を西に向かい、僕は映画『ザ・ウォーリアーズ』(訳注1)で使われた地下鉄駅の建物を撮影した。白く塗ったバットで武装したストリートのギャングたちザ・ベースボール・フューリーズが、彼らのライヴァル、ザ・ウォーリアーズを、そこから71丁目まで追いかけていった場所だ。
左・夜明け前の雪に煙るアンソニー・マイケル・ホールの1980年代の家の外観 右・地下鉄駅・ここからベースボール・フューリーズがウォーリアーズを追いかけた
日の出までに雪は止み、73丁目とブロードウェイの角にあるニードル・パークのジュゼッペ・ヴェルディー(訳注2)の銅像を撮ったみた。1970年代のアル・パチーノの映画『ザ・パニック・イン・ニードル・パークThe Panic in Needle Park邦題:哀しみの街かど』(1971年)は、そこにたむろしていたジャンキー(麻薬中毒者)たちの映画だ。実は、僕の父もジャンキーでそこにたむろしていた。一度は父が95丁目とブロードウェイにある映画館の前の排水溝で横になっているのを見つけたこともあった。当時その映画館は、単に「セリア」と呼ばれていた。そこは今では、『スタートレック』のミスター・スポックで有名になった「レオナード・ニモイ・セリア(劇場)」と呼ばれている。「長寿と繁栄を」は、ミスター・スポックのヴァルカン式あいさつ(訳注3)だが、僕もそうするつもりだ。ようこそ、惑星地球へ。
左・ニードルパーク 右・「レオナード・ニモイ・セリア(劇場)」僕の父の思い出に撮影した写真
訳注1 1979年のアメリカ映画。ウォルター・ヒル監督。
訳注2 ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi, 1813年10月10日 - 1901年1月27日)はイタリアオペラの作曲家。
訳注3 人指し指と中指・薬指と小指を付け、中指と薬指の間と親指を開いて、相手に掌を見せ「長寿と繁栄を」"Live long and prosper"と言うヴァルカン式挨拶(ヴァルカン・サリュート)は有名。
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Walking on Planet C by Nile Rodgers @nilerodgers
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
第8回Stayin' Alive 「ステイン・アライヴ」
Written on Sunday, 23 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 23 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/233-walking-on-planet-c-stayin-alive
完全防寒で自宅出発
今朝の気温は、華氏12度(摂氏では約マイナス12度)。昨夜寝る前に、ちょっとしたパニック発作になった。僕の手術後の症状は期待したほどの早さではよくなっていないようだ。だが、ウォーキングすることでそうした懸念が晴れることもわかっている。
ビージーズの「ステイン・アライヴ」(訳注1)をハミングしながら自宅を出た。曲は、今まで見たことがなかったレコード店にたどり着いたところで止まった。前世紀からの遺跡と言っても過言ではない「ウェストサイダー・レコーズ」という店だった。いい感じでこの店の目前で僕の人生がフラッシュバックした。音楽と文学の世界で僕が気に入っているものほとんど全てがそこにはあった。ストラヴィンスキー、ニューヨーカー誌のマンガ集、ドゥーワップ(のボックスセット)、多様性のあるジャズ、それらすべてがこの天国のようなレコード店に所狭しとあった。
ウェストサイダー・レコード店
若かった頃、ジャズとクラシック・ギターを学んだ。僕はたった一度だけクラシックのリサイタルをリンカーン・センターにある演技芸術のためのニューヨーク公立図書館で行ったことがある。僕はその演目をうまくプレイできたとは思うが、ジャズの方がもっと僕にはあっていた。そして、ジャズからR&Bに興味が移り、それが僕のバンド、シックに結びついた。
演技芸術のためのニューヨーク公立図書館
シックの成功はまさに好き勝手やり放題の時代のことだった。その結果多くの人が死んだ。そこには僕も含まれる。クラシック音楽風ファッションで、リンカーン・センターの向かいにあった80年代に住んでいたアパートで僕は一度急死した。だが、幸運なことに、そこはルーズヴェルト病院の向かいだった。何度も心電図は止まったが、最終的に心臓の鼓動が復活し安定した。医師は僕を生き返らせるのがどれほど大変だったか話してくれた。生きるために一生懸命働けとも言われた。僕は今でもその時の医師との約束を守ろうとしている。
左・ディスコ時代人気絶頂だったシック 右・リンカーン・センターの向かいにあった80年代に住んでいたアパート
左・ストラヴィンスキー、ニューヨーカーのマンガ集、ドゥーワップのコンピレーション 右・僕は医師との約束を守り続けよう
訳注1 ビージーズの1977年から1978年にかけての大ヒット。映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』に収録。
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Walking on Planet C by Nile Rodgers @nilerodgers
プラネットC(癌惑星)を歩いて ナイル・ロジャーズ著
第9回Crazy Cancer Thoughts 癌特有のクレイジーな思い
Written on Sunday, 24 January 2011 05:00 by Nile Rodgers
(Japan Standard Time, 24 January 2011 19:00)
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll/234-walking-on-planet-c-crazy-cancer-thoughts
今朝日課のウォーキングを始めたとき、外は華氏16度(摂氏マイナス9度)だったが、僕はラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティー」を歌っていた。奇妙な感じだ。きっと、僕は何かニューヨークという街か、あるいは、夏の白昼夢についてでも言葉を発したかったのかもしれない。この曲はジョン・セバスチャンが歌っていたが、彼も僕同様ニューヨーカーだ。僕はこの曲を、この街、僕の人生、そして癌摘出手術後の最初の食事と同じくらい好きで、高く評価している。
左・ジョン・セバスチャン 昨年一緒にステージに立った 右・癌手術後、初の食事
今日は癌が僕の体と心に宿って以来初めて平和な朝を迎えることができた。救急車の音が行き交い、お互い十代の頃から知っている友人のことを考えた。彼は医者で、作家で、癌からのサヴァイヴァー(生存者)だ。彼は僕が癌になったことを知って見舞いに来てくれた。そして、癌になるとさまざまなクレイジーな考えが頭に浮かんでくることを解説してくれた。一日一緒に過ごして、僕の恐怖を和らげてくれた彼の別れ際の言葉がこうだった。「ようこそ、プラネットC(癌惑星)の人生へ」。
左・僕とエリック・クラプトン 右・僕とデイヴィッド・ボウイ
言葉には力がみなぎっている。僕はデュオ・チーム、モンゴメリー・ジェントリー(訳注1)の一人エディー・モンゴメリーが、ツアー日程を発表していたのを読んだ。(http://bit.ly/gQsAS) エディーも僕と同じタイプの癌になり、同じ手術を受けていたのだ。記事をいくつか読んで彼の手術日からライヴ日程までの時間を計算すると、約6週間だった。僕は彼の日程と自分のそれを重ね合わせると、何かほっとしたのだ。これは癌特有のクレイジーな考えなのだろうか?
あらゆるケースは似ているが、独特でもある。デイヴィッド・ボウイの言葉を借りれば、「同じだが、違う」ということになる。これは、1983年彼と一緒にアルバム『レッツ・ダンス』を作った時に語ってくれた言葉と同じものだ。『レッツ・ダンス』は、いわゆる「ディスコ・サックス・ムーヴメント」(ディスコはもう終わったという風潮)(注2)がディスコ・ブームに楔(くさび)を打ち込んだ後、音楽業界において僕に第二の人生を与えてくれた。新しく生まれ変わった僕は、その後、インエクセス、エリック・クラプトン、デュラン・デュラン、マドンナ、ミック・ジャガー、グレース・ジョーンズ、ザ・ヴォーン・ブラザーズ、その他多くのアーティストたちと仕事をする機会に恵まれた。
昨年4月の日本のファン
毎年4月、僕は自分の元パートナー、バーナード・エドワーズをトリビュートするために、日本でライヴを行う。バーナードは、1996年、日本で亡くなった。僕は今年もまた4月に日本に行くつもりだ。4月の訪日も、癌特有のクレイジーな思いかな?
左・僕とサイモン・ルボン 右・僕とマドンナ、1985年のライヴエイド
左・僕とグレイス・ジョーンズ 右・僕とナード(バーナード)1996年、武道館
(訳注1) ケンタッキー出身のカントリー・アーティスト
(訳注2) 1980年代に入ると、70年代に隆盛を誇ったディスコの人気が急速に落ちた。メディアがいっせいに「ディスコは終わった」とはやしたて、いわゆるそれまでディスコで成功を収めてきたアーティストたちに強烈な逆風が吹いた。これがよく言われる「ディスコ・サックス・ムーヴメント」だ。シックもその逆風にさらされ、人気が急速に落ちていった。
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(ブログの翻訳、写真使用については、ナイル・ロジャーズ氏の承諾を得ています)
1 ■有難うございましたm(__)m
Nileが公表してから、常にWalking On Planet Cを見ています。・・・
訳し方や固有名詞でわからないものもあったのですが、ここではっきりしました。\(^o^)/
有難うございました。m(__)m
日本公演の日程は確かに手術日より6週間以上先になりますし、Bernardの命日も含まれていますが、無理せず、ゆっくりで良いから、元気な姿を!と願うばかりです。m(__)m