★△ナイル・ロジャーズ、癌を公表
テーマ:Walking On Planet C【Nile Rodgers Reveals Prostate Cancer】
公表。
シック(シーク)のプロデューサーであり、ギタリストでもあるナイル・ロジャーズが2011年1月14日(金)(日本時間、15日朝)ブログ、フェイスブック、ツイッターなどで癌であることを公表した。それらの情報を総合すると、昨年(2010年)10月27日、医師から癌であることを告知され、治療方法の選択肢を提示され、結局、2011年1月11日(火)に手術を行い、無事手術は終了した。当初は癌の種類などは明かされていなかったが、日本時間17日夜7時半過ぎにアップされたブログなどで、前立腺癌であること、グリーソンスコア(癌の進行などを数値化したもの)ではかなり高い点(つまり、かなり悪性)であることを明かした。入院した病院は、ニューヨークのプレスビテリアン病院Presbyterian Hospital(マンハッタン68丁目)とみられる。ナイル・ロジャーズは2011年4月にブルーノートでの来日公演が決まっており、本人も来日すると明言している。
手術の数週間前、アース・ウィンド&ファイアーのオープニングを務めたときに、指に力が入らずギター・ピックを握れず、結局素手でギターを弾き、急場をしのいだという。いろいろと検査をして、複数の医師に診断をあおいだが、結局、さまざまな選択肢から根治手術を選択。1月11日に手術を行った。
そして、1月14日(日本時間で15日午前7時半ごろまでに)、ブログ、ツイッター、フェイスブックなどで癌を公表した。
2011年1月14日(午後12時アメリカ東部時間にアップ=日本時間15日午前2時ごろ)アップされた記事
http://nilerodgers.com/blog/walking-on-planet-c
(全訳は下にあります)(Walking On Planet C)
2011年1月17日(午前5時アメリカ東部時間=日本時間17日午後7時ごろ)にアップされた記事
http://nilerodgers.com/blog/planet-c-blog-roll
Walking on Planet C : Surgery Day
ナイルは、17日にアップされたブログ・エントリー(「手術当日Surgery Day」)の中で、自身が告知から手術、そしてリハビリ・完治までの過程を、多くの同じような病気になった、あるいはなるかもしれない患者のために、書き記すとしている。自身の恐怖の経験が少しでも同様の患者の手助けになり、共鳴してもらえればいい、という。
ちなみにこの日のエントリーでも自身の顔写真が出ているが、これは治療服(頭巾のようなもの)を着用している。また、下の写真はキャプションによると、マドンナがかつて住んでいた小さなアパート。この日、80年代に使っていたアドレス帳から、マドンナが電話番号を書き記したメモがぽろりと落ちた、という。それは彼女のマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴ後の打ち上げが行われたパレイディアム(当時人気のディスコ)の紙(きっとショップカードのようなものだろう)に書かれたものだった。
下記のナイルのブログ・エントリーは、涙を誘う。全訳をしたので、ごらんください。
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2011年1月14日(アメリカ日時=日本時間15日午前2時ごろ)アップされた記事
http://nilerodgers.com/blog/walking-on-planet-c
この全訳です。
ナイル・ロジャーズ著 惑星Cを歩きながら~Walking On Planet C
2010年10月27日、僕に悪性の癌が見つかった。その瞬間、僕の幸福な音楽人生は音を立てて崩れ落ちた。まるでジョーズに体の内側から食べられ始めているかのようだった。生体検査の結果、僕は一刻も早く、自身でひじょうに重要な決断を下さなければならなくなった。多くの医師にセカンド・オピニオンを聞き、根治手術を受けることを決めた。癌とその周辺すべてを除去する手術だ。僕はこのことをほんの数人にしか言わなかった。誰にも心配をかけたくなかったからだ。特にホリデー・シーズンが近づく家族には心配をかけたくなかった。僕は出来うる限り、いつもどおりに振舞った。ついにそうできなくなるまで。僕の手の筋力が突然なくなったのだ。以来、多くのストレスとなる出来事が起こり始めた。僕は病院から家に戻り、ファミリーみんなにしばらく家を留守にしていた理由を説明し、人生、音楽、人々への感謝の気持ちを分かち合おうとした。
手術をする前には、ありとあらゆる結果の可能性について心の準備を進めた。それは僕の人生の中でもっとも恐怖を感じていた期間だった。死がすぐそこまで押し迫ってきていた。だが、僕は周囲の仲間と同じようにテンションをあげて過ごしていた。毎日4マイル(6.4キロメーター)のウォーキングは、来るべき手術と長期間におよぶセラピーへの大事な準備だった。
ウォーキングのとき、僕が耳を傾けた唯一の音楽は、自分自身に向けて自分自身で歌っていた歌だった。あるいは、僕の周りに何気なく流れてきた音楽だけだった。
初めての朝のウォーキングは、この「プラネットC(惑星C)」において、ひじょうに不気味なものだった。この「プラネットC」というのは、友人の医者が、癌のことを表現した造語だ。(訳注:いわば「癌・惑星」というニュアンス)
夜明け前、霧があたりを覆っていた。(写真参照) そのとき、僕の脳裏をかすめたのが、「レッツ・ダンス」(デイヴィッド・ボウイ)だった。歩き始め、1.3マイル(約2キロ)ほど行くと、地元のダイナー(カフェ)にたどり着いた。そこで、中に入って珈琲を飲むことにした。
「ウイ・アー・ファミリー」(シスター・スレッジ)が流れ、店のスタッフ全員がそれにあわせて歌っていた。僕は「ワオ、これは僕の曲だ!」とつぶやいた。すると、彼らは僕が気でも狂ったのかという風に見つめた。僕はそこにいる全員を20年以上知っていたが、彼らのうち誰一人としてその曲を僕が共作したことを知らなかったのだ。僕の目に涙があふれた。どういうことなんだ。人々は、普通、どの曲を誰が書いたのかなど気にも留めないことを僕は知っている。だが、これは「ウイ・アー・ファミリー」で、バーナード・エドワーズとナイル・ロジャーズ、つまり、二人ともこの街に住んでいる男たちが書いているのだ。どういうわけか、僕はものすごく傷つき、涙があふれでてしまった。
癌は恐ろしい。癌になると多くのことを考えさせられる。僕のかつてのパートナー(バーナード)がこの世を去り、ほとんどの人々が、彼が作った曲を毎日歌っていても、彼が作ったことさえ誰も知らない。きっと、僕は死を恐れ、自身を不憫(ふびん)に思ったのだろう。癌になると、そんなことを思う。だが、僕の悲しみは真実の声だった。癌とは、自尊心を傷つけられる病気だ。だが僕はそれに立ち向かって堂々としていたい。僕は涙をぬぐい、ダイナーのスタッフに君たちが歌っている歌は僕たちが書いた曲なんだ、と明かした。珈琲を飲み終え、微笑み、みなとハグをして、手を振ってさよならを告げた。
僕の朝のウォーキングには二つの目的がある。自身で病を治すための力をつけるためにあらゆる方策を尽くし、癌を(自身の力で)叩くということ、そして、先に亡くなった作曲パートナー(バーナード・エドワーズのこと)との「グッド・タイムス」(良きあの頃)と幸せな思い出をその楽曲を聴く誰とも共有することだ。僕たちは二人で楽しい音楽を作り上げ、それは自分たちの精神を高揚させる。そのことを僕は誇りに思っている。
ダイナーを出ると僕は家に帰る道すがら3度もフル・ヴァージョンで「ウイ・アー・ファミリー」を歌っていた。
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NEWS>Rodgers, Nile
1 ■こんばんは☆
映画のワンシーンのように頭の中で映像と音楽が浮かび自然に頬を一筋の涙が流れました。
と、同時に映画永遠のモータウンでのレストランでマイガールが流れてきたワンシーンが脳裏をよぎりました。