2011年01月08日(土) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
●ボニーMのボビー・ファレル死去~フランク・ファリアンの成功の影で
テーマ:訃報関連
●ボニーMのボビー・ファレル死去~フランク・ファリアンの成功の影で
【Bobby Farrell Of Boney M Dies At 61】
訃報。
ヨーロッパを拠点に活躍しているディスコ・グループ、ボニーMのメンバー、ボビー・ファレルが2010年12月30日(木)、ロシア・サンクトペテルブルクのホテルで死去した。61歳。ツアー中だった。ウェイクアップ・コールがなっても起きてこないことを不審に思ったホテルのスタッフが部屋に入り、死亡しているのを確認した。前日夜、ライヴを行っていた。
http://aol.it/hnTUKs
■元祖フェイク・シンガーが表に出たグループ
フェイク。
ボニーMは、1974年暮れ、西ドイツのプロデューサーでR&B、ブラック・ミュージック好きだったフランク・ファリアンがディスコでのヒットを狙ってスタジオ・ミュージシャンなどを集めてディスコ曲「ベイビー・ドゥ・ユー・ウォナ・バンプ」を作ったのが始まり。しかし、このヴォーカルを担当していたのは、自身シンガーでもあったフランク本人だった。その後、これがヒットしたために、フランクは、テレビ用にちゃんとしたシンガーをフロントに立てることを考え、シンガーのメイジー・ウィリアムス、ダンサーのボビー・ファレルなどをオーディションで抜擢。グループとしての体をなすことにさせた。その後、ボニーMは、フランクのプロデュースで、1970年代中期以降「ダディー・クール」「サニー」「マ・ベイカー」「ベルファースト」「リヴァーズ・オブ・バビロン」「ラスプーチン」などがヨーロッパを中心に大ヒット。一躍スターの座についた。日本でも、「ラスプーチン」「サニー」などがディスコで大ヒットし、大変な人気を獲得した。
ボニーMは、1975年から1988年までの間に38曲のトップ10(各国でのトップ10をカウントして)、ドイツで15曲のナンバーワン、イギリスで5曲のナンバーワンを記録する未曾有の成功を収める。
しかし、フロントに出てジャケットにも顔出ししたメンバーであるボビーはレコーディングには参加せず、基本はステージではクチパク、ときどき歌っていたという。女性シンガーは、マーシャ・バレットとリズ・ミッチェルが実際にはほとんどの部分を歌っていて、もう一人のメイジー・ウィリアムスは楽曲の歌唱クレジットにあまり名前がでていない。
ボニーM自体は、1970年代はヨーロッパを中心に爆発的人気を獲得していたが、1980年代後半になると、あまり大ヒットらしい大ヒットはでなくなったが、それまでの大ヒットの実績でヨーロッパではライヴ需要があり、彼らは何人かメンバーを変えたりして、ライヴの仕事を積極的に行っていた。またボニーM自体もファリアン本家のものとボビーの分派のものも活動していた。
その後、ファリアンは1980年代後期に、ミリ・ヴァニリという黒人二人組みのディスコ・グループを世に出すが、これもレコーディングではプロのスタジオ・シンガーを起用するが、ライヴやテレビなどでは、モデル兼ダンサーのフロント・マンを雇いクチパクで歌わせた。ミリ・ヴァニリの楽曲は、プロモーション・ビデオもあり、なんと、その後世界的大ヒット。それだけでなく、グラミー賞新人賞などを獲得した。しかし、実際にレコードでこの曲を歌っていたシンガーが、その事実を公表、スキャンダルとなり、最終的にファリアンもこれを認めたため、グラミー賞を剥奪されるという前代未聞の事件となった。
ボビー・ファレルは、ボニーMのフロント・マンとしてダンスをし、近年では若干のコーラスなどをつけていたようだ。
ボビー・ファレルは、1949年10月6日、西インド諸島・小アンティル諸島のアルバ(オランダ領)に生まれた。15歳以降セーラー(水兵)として働き世界の海を航海していたが、ノルウェイ、オランダなどに住み、その後ドイツにわたりDJなどをするようになった。1975年頃、西ドイツ(当時)のプロデューサー、フランク・ファリアン(1941年生まれ)に声をかけられ、ボニーMに参加した。
なお、1916年12月29日、ロシアの怪人物として名高いラスプーチンが、ボビーが死去した同じサンクトペテルブルグで死去している。命日が一日違いだ。
一方、ファリアンの活動は続き、2006年8月、ボニーMを題材としたミュージカル『ダディー・クール』をロンドンで公開したりしている。
+++
才人プロデューサー、フランク・ファリアン
ボニーMは、日本でも新宿のディスコを中心に曲が多数ブレイクし、その後有線、ラジオなどで大ヒットした。アラベスクなどと並んで、いわゆる「ミュンヘン・サウンド」のディスコ・アーティストとして日本でも大変な人気を獲得した。ボニーM成功の最大の立役者は、フランク・ファリアンだ。
実はフランク・ファリアンという人物はとても個人的には興味があって、これまでにもエラプションや、ボニーMなどのライナーノーツで少し書いたことがあった。だが、最近、新たに判明したことなどもあり、そのあたりをいずれまとめてみたい。元々、ロックンロールの洗礼を受け、60年代にはオーティス・レディングの「ミスター・ピティフル」をカヴァーしレコーディングしていたようなR&B好きの人物なのだ。
■ ベスト・オブ・ボニーM
OBITUARY>Farrell, Bobby (October 6, 1949 – December 30, 2010, 61 year –old)
【Bobby Farrell Of Boney M Dies At 61】
訃報。
ヨーロッパを拠点に活躍しているディスコ・グループ、ボニーMのメンバー、ボビー・ファレルが2010年12月30日(木)、ロシア・サンクトペテルブルクのホテルで死去した。61歳。ツアー中だった。ウェイクアップ・コールがなっても起きてこないことを不審に思ったホテルのスタッフが部屋に入り、死亡しているのを確認した。前日夜、ライヴを行っていた。
http://aol.it/hnTUKs
■元祖フェイク・シンガーが表に出たグループ
フェイク。
ボニーMは、1974年暮れ、西ドイツのプロデューサーでR&B、ブラック・ミュージック好きだったフランク・ファリアンがディスコでのヒットを狙ってスタジオ・ミュージシャンなどを集めてディスコ曲「ベイビー・ドゥ・ユー・ウォナ・バンプ」を作ったのが始まり。しかし、このヴォーカルを担当していたのは、自身シンガーでもあったフランク本人だった。その後、これがヒットしたために、フランクは、テレビ用にちゃんとしたシンガーをフロントに立てることを考え、シンガーのメイジー・ウィリアムス、ダンサーのボビー・ファレルなどをオーディションで抜擢。グループとしての体をなすことにさせた。その後、ボニーMは、フランクのプロデュースで、1970年代中期以降「ダディー・クール」「サニー」「マ・ベイカー」「ベルファースト」「リヴァーズ・オブ・バビロン」「ラスプーチン」などがヨーロッパを中心に大ヒット。一躍スターの座についた。日本でも、「ラスプーチン」「サニー」などがディスコで大ヒットし、大変な人気を獲得した。
ボニーMは、1975年から1988年までの間に38曲のトップ10(各国でのトップ10をカウントして)、ドイツで15曲のナンバーワン、イギリスで5曲のナンバーワンを記録する未曾有の成功を収める。
しかし、フロントに出てジャケットにも顔出ししたメンバーであるボビーはレコーディングには参加せず、基本はステージではクチパク、ときどき歌っていたという。女性シンガーは、マーシャ・バレットとリズ・ミッチェルが実際にはほとんどの部分を歌っていて、もう一人のメイジー・ウィリアムスは楽曲の歌唱クレジットにあまり名前がでていない。
ボニーM自体は、1970年代はヨーロッパを中心に爆発的人気を獲得していたが、1980年代後半になると、あまり大ヒットらしい大ヒットはでなくなったが、それまでの大ヒットの実績でヨーロッパではライヴ需要があり、彼らは何人かメンバーを変えたりして、ライヴの仕事を積極的に行っていた。またボニーM自体もファリアン本家のものとボビーの分派のものも活動していた。
その後、ファリアンは1980年代後期に、ミリ・ヴァニリという黒人二人組みのディスコ・グループを世に出すが、これもレコーディングではプロのスタジオ・シンガーを起用するが、ライヴやテレビなどでは、モデル兼ダンサーのフロント・マンを雇いクチパクで歌わせた。ミリ・ヴァニリの楽曲は、プロモーション・ビデオもあり、なんと、その後世界的大ヒット。それだけでなく、グラミー賞新人賞などを獲得した。しかし、実際にレコードでこの曲を歌っていたシンガーが、その事実を公表、スキャンダルとなり、最終的にファリアンもこれを認めたため、グラミー賞を剥奪されるという前代未聞の事件となった。
ボビー・ファレルは、ボニーMのフロント・マンとしてダンスをし、近年では若干のコーラスなどをつけていたようだ。
ボビー・ファレルは、1949年10月6日、西インド諸島・小アンティル諸島のアルバ(オランダ領)に生まれた。15歳以降セーラー(水兵)として働き世界の海を航海していたが、ノルウェイ、オランダなどに住み、その後ドイツにわたりDJなどをするようになった。1975年頃、西ドイツ(当時)のプロデューサー、フランク・ファリアン(1941年生まれ)に声をかけられ、ボニーMに参加した。
なお、1916年12月29日、ロシアの怪人物として名高いラスプーチンが、ボビーが死去した同じサンクトペテルブルグで死去している。命日が一日違いだ。
一方、ファリアンの活動は続き、2006年8月、ボニーMを題材としたミュージカル『ダディー・クール』をロンドンで公開したりしている。
+++
才人プロデューサー、フランク・ファリアン
ボニーMは、日本でも新宿のディスコを中心に曲が多数ブレイクし、その後有線、ラジオなどで大ヒットした。アラベスクなどと並んで、いわゆる「ミュンヘン・サウンド」のディスコ・アーティストとして日本でも大変な人気を獲得した。ボニーM成功の最大の立役者は、フランク・ファリアンだ。
実はフランク・ファリアンという人物はとても個人的には興味があって、これまでにもエラプションや、ボニーMなどのライナーノーツで少し書いたことがあった。だが、最近、新たに判明したことなどもあり、そのあたりをいずれまとめてみたい。元々、ロックンロールの洗礼を受け、60年代にはオーティス・レディングの「ミスター・ピティフル」をカヴァーしレコーディングしていたようなR&B好きの人物なのだ。
■ ベスト・オブ・ボニーM
ボニーM ザ・ベスト・コレクション
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ボニーM
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OBITUARY>Farrell, Bobby (October 6, 1949 – December 30, 2010, 61 year –old)