2010年07月08日(木) 01時40分00秒
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☆ハーヴィー・フークワ80歳で死去~ムーングロウズのリード・シンガー:マーヴィン・ゲイの育ての親
テーマ:訃報関連
☆ハーヴィー・フークワ80歳で死去~ムーングロウズのリード・シンガー:マーヴィン・ゲイの育ての親
【Harvey Fuqua Dies At 80】
訃報。
1950年代名門ドゥー・ワップ・グループ、ムーングロウズのリーダーでありリード・シンガー、ハーヴィー・フークワが2010年7月6日デトロイトの病院で死去した。80歳だった。
ハーヴィー・フークワは、1950年代ムーングロウズのメンバーとして「シンシアリー」、「モースト・オブ・オール」「テン・コマンドメンツ・オブ・ラヴ」などの大ヒットを出し、その後、マーヴィン・ゲイと知り合い、マーヴィンを自身のグループに。マーヴィンはソロとしてモータウンと契約。彼を育てる一役を担った。ドゥー・ワップ・グループとして、ムーングロウズをヒットさせた最大の立役者がハーヴィーだ。
本拠としたデトロイトで、1960年代初期に自身のレーベル、トライ・ファイを設立。ジュニア・ウォーカー&オール・スターズ、スピナーズなどを発掘、育てた。さらに、70年代に入ると、シルヴェスター、ニュー・バースなどを発掘、育てている。1950年代から70年代、80年代までR&B業界で活躍。
1988年5月、スモーキー・ロビンソンの来日に帯同していた。また、日本では山下達郎氏がアルバム『オン・ザ・ストリート・コーナー』で「モースト・オブ・オール」をカヴァー。彼のファンや、ドゥー・ワップ・ファンの間では大変人気の高いグループだった。
一月ほど前から体調を崩し、デトロイトの病院に入院していた。冠状動脈の問題があり、心臓発作で死去したという。
■ 『ソウル・サーチン~第二章~ハーヴィー・フークワ』(吉岡正晴著)
http://www.soulsearchin.com/soulsearchin/2.html
■ ハーヴィー・フークワ死去のニューズ
ABCニューズ
http://abcnews.go.com/Entertainment/wireStory?id=11103904
AP
http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5hLAx9zj0WzOV6E1H4NrSnVBYrsUQD9GPUU0G0
EURWEB
http://www.eurweb.com/?p=34412
+++++
プロフィール。
ハーヴィー・フークワは1929年(昭和4年)7月27日ケンタッキー州ルイヴィル生まれ。やはり1950年代に活躍したインクスポッツのチャーリー・フークワのいとこにあたる。1951年地元でドゥー・ワップ・グループ、クレイジー・サウンズを結成、その後本拠をオハイオ州クリーヴランドに移住。ここの有力DJアラン・フリードの力添えで名前をムーングロウズとする。ムーングロウズは、ロマンティックなドゥー・ワップ・サウンドで「シンシアリー」、「モースト・オブ・オール」、「テン・コマンドメンツ・オブ・ラヴ」などの大ヒットを出した。特にハーヴィーは、低音の魅力でファンを獲得。1958年、ハーヴィーは他のメンバーと折り合いが悪くなり、グループを脱退。そんな頃、当時マーキーズというグループと知り合い、このリード・シンガー、マーヴィン・ゲイに注目する。ハーヴィーはこのマーキーズを新しいムーングロウズとして活動するようになる。当時十代だったマーヴィンは、ムーングロウズ、とりわけハーヴィーの声の大ファンであり、あこがれであった。
ハーヴィーはこの頃、シカゴのチェス・レコードに所属、同レーベル所属のエタ・ジェームス(一時期、ハーヴィーとつきあっていた)とのデュエットなども録音している。その後、ハーヴィーは裏方で活躍するようになり、1960年、トライ・ファイ・レーベルを設立。ジュニア・ウォーカー&オール・スターズ、マーヴィン・ゲイを迎える。一方、ハーヴィーと恋仲になったグエン・ゴーディーはアンナ・レコードを設立。そこにはスピナーズ、ラモント・ドジャー、ジョー・テックスなどが在籍。両者はふたつのレーベルを統合。しかし、このレーベルが経済的に行き詰まり、グエンの弟であるベリー・ゴーディー(モータウン社長)に身売り、これにともない、このレーベルにいたアーティストは自動的にモータウン所属となった。
ハーヴィーは、モータウンでA&R(制作担当ディレクター)の仕事をして、レコード制作、宣伝などを担当。この時期、ハーヴィーはマーヴィン&タミーの「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」、「ユア・プレシャス・ラヴ」などをプロデュース。ハーヴィーは1970年までにモータウンを退社。インディペンデント・プロデューサーとして活動、RCAと契約。ここでニュー・バース、ナイトライターズをてがけた。さらに、70年代中期、サンフランシスコで活躍していたゲイのシンガー、シルヴェスターも発掘、ヒットさせている。ここからの派生プロジェクト、トゥー・トンズ・オー・ファン、のちにウェザー・ガールズをヒットさせる。
マーヴィンは、ベリー・ゴーディーの姉アンナと結婚、またハーヴィーは同じくグエンと結婚していたことから、一時期、義理の兄弟関係にあった。
その後、1981年から1982年にかけて、モータウンを辞めていたマーヴィン・ゲイのCBSレコード移籍第一弾となるアルバムを手伝い、完成させる。それが『セクシュアル・ヒーリング』となり、マーヴィンは奇跡の復活を果たす。
しかし、マーヴィンは1984年4月1日、父親の銃弾に倒れるという衝撃の結末を迎え、ハーヴィーも衝撃を受ける。ハーヴィーはその後、モータウン時代の旧友であり親友のスモーキー・ロビンソンと公私共にすごしながら悠々自適な生活をしていた。
+++++
ソウル・サーチン。
ご存知の方はすでにご存知だと思うが、僕が2000年7月に発表した作品『ソウル・サーチン』(音楽之友社)は、7人(組)のソウル・アーティストたちが体験する「ソウル・サーチン」の人生を描いたものである。ソウル・ミュージシャンを描いた作品としては他に類のない著作だ。ここの第二章でハーヴィー・フークワを書いた。ハーヴィーには1988年6月にインタヴューして、素晴らしい話を聞くことができた。あのときのインタヴューしていたときの空気感は、22年経った今も、そして、生涯忘れることはない。
ちょうどそのときは、スモーキー・ロビンソンが初来日していたときで、共同会見の席で大きなブラックの人がいて、スモーキーが彼を紹介した。その名前を聞いて僕は驚嘆した。それがハーヴィー・フークワだった。彼はあのムーングロウズの低音のリード・シンガーだったのだ。そこでその場でインタヴューを申し込んだ。彼は快く引き受け、翌々日、ライヴ後にホテルでインタヴューすることになった。
一時間余の短い時間だったが、めくるめくソウル・ヒストリーだった。まるで映画を見ているようなストーリーだった。低音のしびれるような声で、しかも話がうまい。それより3ヶ月前にジョン・ホワイトヘッドから聞いたストーリーとはまったく違っていたが、ひとつだけ共通点があった。それが「ソウル・サーチン」ということだった。ジョンとハーヴィーの2人から話を聞いて、「ソウル・サーチン」という言葉が僕の中で大きなものになっていった。そして、それから12年を経て『ソウル・サーチン』は一冊の著作になった。
『ソウル・サーチン』では、もちろん成功者におけるアップダウン、激動する運命と心の動き、悩みを描くことが第一義だったが、いわゆる「ソウル・ジャイアント」についても描いてみたかった。それは、オーティス・レディング、サム・クック、マーヴィン・ゲイなどだ。そして、マーヴィンの生涯を、その恩師であるハーヴィーの視点から書いたのである。サムは、ウーマック・ウーマックの視点から、オーティスはその一時的な弟子でもあったジョン・ホワイトヘッドの視点から書いた。
7章のうちいくつかをネットに公開しているが、ハーヴィーのものは公開している。これを機にじっくりお読みいただければ幸いである。(上記リンクアドレス)
ハーヴィーにはもう一度会いたいとずっと思っていた。高齢になっていることは知っていたが、その望むが絶たれたことが残念でならない。
■ザ・フラミンゴス・ミート・ザ・ムーングロウズ(とりあえず、ムーングロウズのいいベストが見つからなかったので、これを)
OBITUARY>Fuqua, Harvey (July 27, 1929 – July 6, 2010 – 80year old)
【Harvey Fuqua Dies At 80】
訃報。
1950年代名門ドゥー・ワップ・グループ、ムーングロウズのリーダーでありリード・シンガー、ハーヴィー・フークワが2010年7月6日デトロイトの病院で死去した。80歳だった。
ハーヴィー・フークワは、1950年代ムーングロウズのメンバーとして「シンシアリー」、「モースト・オブ・オール」「テン・コマンドメンツ・オブ・ラヴ」などの大ヒットを出し、その後、マーヴィン・ゲイと知り合い、マーヴィンを自身のグループに。マーヴィンはソロとしてモータウンと契約。彼を育てる一役を担った。ドゥー・ワップ・グループとして、ムーングロウズをヒットさせた最大の立役者がハーヴィーだ。
本拠としたデトロイトで、1960年代初期に自身のレーベル、トライ・ファイを設立。ジュニア・ウォーカー&オール・スターズ、スピナーズなどを発掘、育てた。さらに、70年代に入ると、シルヴェスター、ニュー・バースなどを発掘、育てている。1950年代から70年代、80年代までR&B業界で活躍。
1988年5月、スモーキー・ロビンソンの来日に帯同していた。また、日本では山下達郎氏がアルバム『オン・ザ・ストリート・コーナー』で「モースト・オブ・オール」をカヴァー。彼のファンや、ドゥー・ワップ・ファンの間では大変人気の高いグループだった。
一月ほど前から体調を崩し、デトロイトの病院に入院していた。冠状動脈の問題があり、心臓発作で死去したという。
■ 『ソウル・サーチン~第二章~ハーヴィー・フークワ』(吉岡正晴著)
http://www.soulsearchin.com/soulsearchin/2.html
■ ハーヴィー・フークワ死去のニューズ
ABCニューズ
http://abcnews.go.com/Entertainment/wireStory?id=11103904
AP
http://www.google.com/hostednews/ap/article/ALeqM5hLAx9zj0WzOV6E1H4NrSnVBYrsUQD9GPUU0G0
EURWEB
http://www.eurweb.com/?p=34412
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プロフィール。
ハーヴィー・フークワは1929年(昭和4年)7月27日ケンタッキー州ルイヴィル生まれ。やはり1950年代に活躍したインクスポッツのチャーリー・フークワのいとこにあたる。1951年地元でドゥー・ワップ・グループ、クレイジー・サウンズを結成、その後本拠をオハイオ州クリーヴランドに移住。ここの有力DJアラン・フリードの力添えで名前をムーングロウズとする。ムーングロウズは、ロマンティックなドゥー・ワップ・サウンドで「シンシアリー」、「モースト・オブ・オール」、「テン・コマンドメンツ・オブ・ラヴ」などの大ヒットを出した。特にハーヴィーは、低音の魅力でファンを獲得。1958年、ハーヴィーは他のメンバーと折り合いが悪くなり、グループを脱退。そんな頃、当時マーキーズというグループと知り合い、このリード・シンガー、マーヴィン・ゲイに注目する。ハーヴィーはこのマーキーズを新しいムーングロウズとして活動するようになる。当時十代だったマーヴィンは、ムーングロウズ、とりわけハーヴィーの声の大ファンであり、あこがれであった。
ハーヴィーはこの頃、シカゴのチェス・レコードに所属、同レーベル所属のエタ・ジェームス(一時期、ハーヴィーとつきあっていた)とのデュエットなども録音している。その後、ハーヴィーは裏方で活躍するようになり、1960年、トライ・ファイ・レーベルを設立。ジュニア・ウォーカー&オール・スターズ、マーヴィン・ゲイを迎える。一方、ハーヴィーと恋仲になったグエン・ゴーディーはアンナ・レコードを設立。そこにはスピナーズ、ラモント・ドジャー、ジョー・テックスなどが在籍。両者はふたつのレーベルを統合。しかし、このレーベルが経済的に行き詰まり、グエンの弟であるベリー・ゴーディー(モータウン社長)に身売り、これにともない、このレーベルにいたアーティストは自動的にモータウン所属となった。
ハーヴィーは、モータウンでA&R(制作担当ディレクター)の仕事をして、レコード制作、宣伝などを担当。この時期、ハーヴィーはマーヴィン&タミーの「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」、「ユア・プレシャス・ラヴ」などをプロデュース。ハーヴィーは1970年までにモータウンを退社。インディペンデント・プロデューサーとして活動、RCAと契約。ここでニュー・バース、ナイトライターズをてがけた。さらに、70年代中期、サンフランシスコで活躍していたゲイのシンガー、シルヴェスターも発掘、ヒットさせている。ここからの派生プロジェクト、トゥー・トンズ・オー・ファン、のちにウェザー・ガールズをヒットさせる。
マーヴィンは、ベリー・ゴーディーの姉アンナと結婚、またハーヴィーは同じくグエンと結婚していたことから、一時期、義理の兄弟関係にあった。
その後、1981年から1982年にかけて、モータウンを辞めていたマーヴィン・ゲイのCBSレコード移籍第一弾となるアルバムを手伝い、完成させる。それが『セクシュアル・ヒーリング』となり、マーヴィンは奇跡の復活を果たす。
しかし、マーヴィンは1984年4月1日、父親の銃弾に倒れるという衝撃の結末を迎え、ハーヴィーも衝撃を受ける。ハーヴィーはその後、モータウン時代の旧友であり親友のスモーキー・ロビンソンと公私共にすごしながら悠々自適な生活をしていた。
+++++
ソウル・サーチン。
ご存知の方はすでにご存知だと思うが、僕が2000年7月に発表した作品『ソウル・サーチン』(音楽之友社)は、7人(組)のソウル・アーティストたちが体験する「ソウル・サーチン」の人生を描いたものである。ソウル・ミュージシャンを描いた作品としては他に類のない著作だ。ここの第二章でハーヴィー・フークワを書いた。ハーヴィーには1988年6月にインタヴューして、素晴らしい話を聞くことができた。あのときのインタヴューしていたときの空気感は、22年経った今も、そして、生涯忘れることはない。
ちょうどそのときは、スモーキー・ロビンソンが初来日していたときで、共同会見の席で大きなブラックの人がいて、スモーキーが彼を紹介した。その名前を聞いて僕は驚嘆した。それがハーヴィー・フークワだった。彼はあのムーングロウズの低音のリード・シンガーだったのだ。そこでその場でインタヴューを申し込んだ。彼は快く引き受け、翌々日、ライヴ後にホテルでインタヴューすることになった。
一時間余の短い時間だったが、めくるめくソウル・ヒストリーだった。まるで映画を見ているようなストーリーだった。低音のしびれるような声で、しかも話がうまい。それより3ヶ月前にジョン・ホワイトヘッドから聞いたストーリーとはまったく違っていたが、ひとつだけ共通点があった。それが「ソウル・サーチン」ということだった。ジョンとハーヴィーの2人から話を聞いて、「ソウル・サーチン」という言葉が僕の中で大きなものになっていった。そして、それから12年を経て『ソウル・サーチン』は一冊の著作になった。
『ソウル・サーチン』では、もちろん成功者におけるアップダウン、激動する運命と心の動き、悩みを描くことが第一義だったが、いわゆる「ソウル・ジャイアント」についても描いてみたかった。それは、オーティス・レディング、サム・クック、マーヴィン・ゲイなどだ。そして、マーヴィンの生涯を、その恩師であるハーヴィーの視点から書いたのである。サムは、ウーマック・ウーマックの視点から、オーティスはその一時的な弟子でもあったジョン・ホワイトヘッドの視点から書いた。
7章のうちいくつかをネットに公開しているが、ハーヴィーのものは公開している。これを機にじっくりお読みいただければ幸いである。(上記リンクアドレス)
ハーヴィーにはもう一度会いたいとずっと思っていた。高齢になっていることは知っていたが、その望むが絶たれたことが残念でならない。
■ザ・フラミンゴス・ミート・ザ・ムーングロウズ(とりあえず、ムーングロウズのいいベストが見つからなかったので、これを)
ザ・フラミンゴス・ミート・ザ・ムーングロウズ
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OBITUARY>Fuqua, Harvey (July 27, 1929 – July 6, 2010 – 80year old)
1 ■ハーヴィー・フークアさんのご冥福をお祈りします。
はじめまして
Marvin Gaye物語/引き裂かれたソウルを読みまして、マーヴィンはフ-クワさんと切ってもきれない信頼関係、またフ-クワ無きしてマーヴィン・ゲイ成らずという思いです。
マーヴィンが憧れ、そしてマーヴィンの才能に目をかけ歌い方から音楽の神髄まで教えて頂いたフークアさんのご冥福をお祈りいたします☆
恩師としてマーヴィン最後のアルバムに加わり素晴らしい楽曲を制作したフ-クワさんに心から感謝しています。
合掌