2010年07月04日(日) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
★『アメリカン・トップ40』40周年
テーマ:ラジオ>
★『アメリカン・トップ40』40周年
【Radio Programme “American Top 40” Celebrate 40th Year】
40周年。
アメリカを始め全世界のラジオ局で放送されているチャート番組『アメリカン・トップ40』が、今日2010年7月4日で初オンエアからちょうど40年を迎える。『アメリカン・トップ40』は、ケイシー・ケイスンの発案、DJで、1970年7月4日から全米のラジオ局7局で放送が始まった。同番組は、アメリカの音楽業界誌ビルボードのシングル・チャート『ホット100』の上位40曲を40位から1位まで順にすべてをかけていくシンプルな構成で人気を獲得。アメリカのみならず、全世界で配給され、日本でも1972年10月14日から当時のラジオ関東(AM)で『全米トップ40』というタイトルで放送が始まった。この日本版は、DJに湯川れい子さん、ラジオ関東アナウンサーの坂井隆夫さんが担当。当時洋楽を聴く音楽ファンのバイブル的存在となった。
『アメリカン・トップ40』は、しばしば「AT40(エイティー・フォーティー)」と呼ばれ、ネット局も増えた。当初は3時間で40曲すべてをフルコーラスかけることを大前提にしていたが、70年代後期になると、一曲の長さが長くなり、1978年から放送が4時間になった。最盛期には全世界50カ国、500局以上のラジオ局で放送された。
その後、ケイシー・ケイスンと番組制作会社との意見の相違から、ケイスンが1988年8月6日の『AT40』で離脱、翌8月13日から新人のシャドー・スティーヴンスに交代。しかし、翌年1989年1月21日から、ケイスンは独立し『ケイシーズ・トップ40』という番組をスタート。これは、ラジオ&レコード誌のチャートをもとに40曲をカウントダウンした。その後、ケイスンは『アメリカン・トップ40』に戻るが、2004年1月からライアン・シークレストがホストDJとなった。また1995年1月から1998年3月まで番組は休止した。また、使用するチャートは当初のビルボード誌からラジオ&レコーズ誌、その中のチャートもいろいろと変わった。
日本ではラジオ関東以降、東京FM、FM横浜などで放送され、現在はZIP-FM(名古屋)で放送されている。また、日本の米軍放送局AFRTS(現在のAFN)(通称FEN)でも放送されていた。
40年の歴史の中には、さまざまなエピソードが残されているが、そのうちのいくつか。
初回放送(1970年7月4日)の最初のオンエア曲は、すなわちビルボード誌ホット100(1970年7月11日付け)の40位だった曲。それは、マーヴィン・ゲイの「ジ・エンド・オブ・アワ・ロード」だった。
初回放送の1位は、スリー・ドッグ・ナイトの「ママ・トールド・ミー・ノット・トゥ・カム」。
1978年8月から、同番組では世界中にリスナーがいることから、「ロング・ディスタント・デディケーション(遠距離メッセージ)」というコーナーをスタート。その初回は、ドイツに住むガール・フレンド、デズリーへのメッセージをニール・ダイモンドの「デズリー」とともにリクエストしたアメリカ在住の男性のお便りが紹介された。
ケイシー・ケイスンは1932年(昭和7年)4月27日ミシガン州デトロイト生まれ。両親はレバノン人。1950年代中期からラジオ業界で仕事を始めた。全米のラジオ局でDJをしているうちに、1970年7月から『アメリカン・トップ40』をスタートさせた。2009年7月4日、『アメリカン・トップ20』『アメリカン・トップ10』の番組を終了、39年間におよぶ『アメリカン・トップ40』DJを引退した。しかし、1970年代から80年代にかけての番組が現在でも200以上の放送局で再放送されている。
+++++
バイブル。
『アメリカン・トップ40』は、日本各地にその研究会ができるほど、アメリカのポップス好きにとってはバイブル的存在だった。かく言う僕も大学生時代、この番組をFEN、ラジオ関東と毎週聴いてそのチャートをノートに書き取っていたほど。土曜の午後まずFENで英語版を聴き、夜10時からラジオ関東の湯川れい子さんの解説で聴いた。現在音楽業界(特に洋楽)で活躍している人たちで、この『アメリカン・トップ40』にお世話になっていない人はほとんどいないだろう。洋楽の情報がまだほとんどなかった頃、無名アーティストの情報などが放送されて重宝したものだ。
ケイシー・ケイスンの英語が、発音もはっきりし、比較的ゆっくり話すので聞き取りやすかったのもよかった。チャートを40位から1位までカウントダウンしていくというシンプルな構成なので、英語の言い回しにいくつかパターンがあり、何度か聴いているうちにそれらを覚えるようにもなった。
『アメリカン・トップ40』の大きな魅力はその台本にあった。ひじょうによく練られた英語で、それはまさに英語の教科書のような正しい文章、しかも発音も聴き取りやすい英語だった。そこで明かされるエピソードも、実に取材が行き届いていておもしろいものが多かった。
印象に残っているエピソードはいくつもあるが、1973年のドーンの大ヒット「幸せの黄色いリボン(Tie A Yellow Ribon Round The Oak Tree)」の誕生秘話などは特筆ものだった。これはのちに日本でも「幸せの黄色いハンカチ」となって映画化されるが、初めて聴いたときは、胸を打たれたものだ。
最近は、シングル自体が発売されないことも多いので、なかなかトップ40の意味合い、重要度も薄れてきてしまったが、それでも「全米ナンバーワン」というキャッチフレーズはいまでもそれなりに有効かもしれない。
ENT>RADIO>American Top 40
【Radio Programme “American Top 40” Celebrate 40th Year】
40周年。
アメリカを始め全世界のラジオ局で放送されているチャート番組『アメリカン・トップ40』が、今日2010年7月4日で初オンエアからちょうど40年を迎える。『アメリカン・トップ40』は、ケイシー・ケイスンの発案、DJで、1970年7月4日から全米のラジオ局7局で放送が始まった。同番組は、アメリカの音楽業界誌ビルボードのシングル・チャート『ホット100』の上位40曲を40位から1位まで順にすべてをかけていくシンプルな構成で人気を獲得。アメリカのみならず、全世界で配給され、日本でも1972年10月14日から当時のラジオ関東(AM)で『全米トップ40』というタイトルで放送が始まった。この日本版は、DJに湯川れい子さん、ラジオ関東アナウンサーの坂井隆夫さんが担当。当時洋楽を聴く音楽ファンのバイブル的存在となった。
『アメリカン・トップ40』は、しばしば「AT40(エイティー・フォーティー)」と呼ばれ、ネット局も増えた。当初は3時間で40曲すべてをフルコーラスかけることを大前提にしていたが、70年代後期になると、一曲の長さが長くなり、1978年から放送が4時間になった。最盛期には全世界50カ国、500局以上のラジオ局で放送された。
その後、ケイシー・ケイスンと番組制作会社との意見の相違から、ケイスンが1988年8月6日の『AT40』で離脱、翌8月13日から新人のシャドー・スティーヴンスに交代。しかし、翌年1989年1月21日から、ケイスンは独立し『ケイシーズ・トップ40』という番組をスタート。これは、ラジオ&レコード誌のチャートをもとに40曲をカウントダウンした。その後、ケイスンは『アメリカン・トップ40』に戻るが、2004年1月からライアン・シークレストがホストDJとなった。また1995年1月から1998年3月まで番組は休止した。また、使用するチャートは当初のビルボード誌からラジオ&レコーズ誌、その中のチャートもいろいろと変わった。
日本ではラジオ関東以降、東京FM、FM横浜などで放送され、現在はZIP-FM(名古屋)で放送されている。また、日本の米軍放送局AFRTS(現在のAFN)(通称FEN)でも放送されていた。
40年の歴史の中には、さまざまなエピソードが残されているが、そのうちのいくつか。
初回放送(1970年7月4日)の最初のオンエア曲は、すなわちビルボード誌ホット100(1970年7月11日付け)の40位だった曲。それは、マーヴィン・ゲイの「ジ・エンド・オブ・アワ・ロード」だった。
初回放送の1位は、スリー・ドッグ・ナイトの「ママ・トールド・ミー・ノット・トゥ・カム」。
1978年8月から、同番組では世界中にリスナーがいることから、「ロング・ディスタント・デディケーション(遠距離メッセージ)」というコーナーをスタート。その初回は、ドイツに住むガール・フレンド、デズリーへのメッセージをニール・ダイモンドの「デズリー」とともにリクエストしたアメリカ在住の男性のお便りが紹介された。
ケイシー・ケイスンは1932年(昭和7年)4月27日ミシガン州デトロイト生まれ。両親はレバノン人。1950年代中期からラジオ業界で仕事を始めた。全米のラジオ局でDJをしているうちに、1970年7月から『アメリカン・トップ40』をスタートさせた。2009年7月4日、『アメリカン・トップ20』『アメリカン・トップ10』の番組を終了、39年間におよぶ『アメリカン・トップ40』DJを引退した。しかし、1970年代から80年代にかけての番組が現在でも200以上の放送局で再放送されている。
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バイブル。
『アメリカン・トップ40』は、日本各地にその研究会ができるほど、アメリカのポップス好きにとってはバイブル的存在だった。かく言う僕も大学生時代、この番組をFEN、ラジオ関東と毎週聴いてそのチャートをノートに書き取っていたほど。土曜の午後まずFENで英語版を聴き、夜10時からラジオ関東の湯川れい子さんの解説で聴いた。現在音楽業界(特に洋楽)で活躍している人たちで、この『アメリカン・トップ40』にお世話になっていない人はほとんどいないだろう。洋楽の情報がまだほとんどなかった頃、無名アーティストの情報などが放送されて重宝したものだ。
ケイシー・ケイスンの英語が、発音もはっきりし、比較的ゆっくり話すので聞き取りやすかったのもよかった。チャートを40位から1位までカウントダウンしていくというシンプルな構成なので、英語の言い回しにいくつかパターンがあり、何度か聴いているうちにそれらを覚えるようにもなった。
『アメリカン・トップ40』の大きな魅力はその台本にあった。ひじょうによく練られた英語で、それはまさに英語の教科書のような正しい文章、しかも発音も聴き取りやすい英語だった。そこで明かされるエピソードも、実に取材が行き届いていておもしろいものが多かった。
印象に残っているエピソードはいくつもあるが、1973年のドーンの大ヒット「幸せの黄色いリボン(Tie A Yellow Ribon Round The Oak Tree)」の誕生秘話などは特筆ものだった。これはのちに日本でも「幸せの黄色いハンカチ」となって映画化されるが、初めて聴いたときは、胸を打たれたものだ。
最近は、シングル自体が発売されないことも多いので、なかなかトップ40の意味合い、重要度も薄れてきてしまったが、それでも「全米ナンバーワン」というキャッチフレーズはいまでもそれなりに有効かもしれない。
ENT>RADIO>American Top 40
1 ■祝!AT40!40周年!
その通り、バイブルでした。!
一番感動したことは、坂本九さんが日航機事故で亡くなった後、Long Distance DedicationでSukiyaki(上を向いて歩こう)が取り上げられたことです。!
尚、自分は今、半分名古屋にいるのですが、ZIP-FMは、ほとんど聴いておりません。(^_^;)
(時間帯が・・・なので・・・申し訳ありません。(^_^;))