◆『ディス・イズ・イット』秘話(パート1)~バシリ・ジョンソン語る
テーマ:マイケル・ジャクソン関連【Behind The Scenes On "This Is It" (Part 1)】
秘話。
2009年7月から行われる予定だったマイケル・ジャクソンの『ディス・イズ・イット』ツアー。そのバンド・メンバーの一員でパーカッション奏者、バシリ・ジョンソンに『ディス・イズ・イット』ツアーの舞台裏の様子を、西寺郷太さんと一緒に聞いた。一体『ディス・イズ・イット』の真の全貌はどのようなものになっていたのか。映画では語られない新しい話もいくつか出てきたので、じっくりお楽しみください。
バシリ・ジョンソンは、ニューヨークを本拠とする売れっ子パーカッション奏者。いわゆる業界では、「ファースト・コール」(一番最初にプロデューサーらが、電話をするアーティスト)の打楽器奏者だ。ソウル、R&Bだけでなく、ロック、ジャズ、フュージョン、さらにはいくつかのJポップなどありとあらゆるジャンルの音楽に彼の名前がでてくる。ニューヨーク系のここ20年のアルバムを10枚見れば、そのうちの半分くらいには彼の名前が見出せるかもしれない。
ライヴ・ツアーも、ホイットニー・ヒューストンのほか、スティーヴィー・ウインウッド、スティング、マイケルなど大物アーティストをてがけている。日本でも大貫妙子のツアーで来日したり、スマッピーズや、シライシ紗トリのCDにも参加している。
そんなバシリのもとに、今回の『ディス・イズ・イット』ツアーの音楽監督であるマイケル・ベアデン(キーボード)から電話があったのは、2009年4月16日の深夜3時くらいだったという。ベアデンはロス時間の夜中すぎにかけたのだが、ニューヨークでは時差のため、3時を回っていた。
「今度、マイケル・ジャクソンのツアーをするために、バンドを編成している。参加しないか」 バシリは、寝ぼけ眼ながら、「もちろん、やるよ」と答えた。すると、べアデンは、「すぐにエア・チケットを手配するから、ロスに来てくれ。もろもろ事務所の人間から君に連絡させる」と言った。
マイケル・ジャクソンは、バシリにとっても、子供の頃から親しんだアイドル。もちろん、ジャクソン・ファイヴ時代から、ヒット曲を口ずさんできた。マイケルのツアーとなれば、断れるわけがない。とはいうものの、バシリも売れっ子奏者。4月から1年近く拘束されるとなると、すでにいくつか入っている仕事を調整しなければならない。そこで1-2日かけて、バシリはどうしてもバッティングする仕事をキャンセルし、自分のスケジュールをすべてあけることにした。すぐにエア・チケットは、いわゆる「Eチケット」というもので送られ、電話から4日後の4月20日にバシリは、ロスに飛んできた。
ロスでは、すでに4月13日からダンサーのオーディションが始まっていた。13日は男子のダンサーのオーディション、14日は女子、そして、15日は前2日で選抜され残ったメンバーの男子女子合同のオーディションだ。何千人という応募書類から、約550名が書類審査で選ばれ、ノキア・シアターにやってきていた。この中に、ケント・モリももちろんいた。
4月のこの時期、『ディス・イズ・イット』のプロジェクトは大車輪で動きはじめていたわけだ。ダンサーのオーディション、バンドの編成。4月16日までにダンサーが決まり、バンド・メンバーもほぼ決まった。
バシリは、4月21日からリハーサルに参加。一部のミュージシャンはすでにリハを開始していた。バンド・リハは、センター・ステージのスタジオ8で行われていた。そして、バシリにとっての2日目、4月22日、マイケル・ジャクソンがそのリハを見に来て、バシリのパフォーマンスを見て、「OKだ、君はバンドの一員だ」と言って、参加が正式決定した。「すでに、そのとき、アレックス・アル、ジョナサン・モフェット、オリ(オリアンティ)、トニー・オーガンがいた。モリス・プレジャーは、僕の後に入ってきた」とバシリは振り返る。
バシリは、リハの模様の中でこんなことを思い出す。「あるとき、マイケルが、何の曲だったか覚えてないんだけど、僕のことをじっと凝視していたんだ。ずっとだよ。相当長い間。僕はただひたすらプレイしていたんだけど、マイケルはなぜか、僕のことを凝視していた。後でわかったんだけど、彼は、僕がどのパーカッションを叩くと、どんな音が出るのかを知りたがっていたんだ。どれを叩くと、どんな音がするのかってね。僕は別にナーヴァスにはならなかったけど、彼は真剣にその楽器のことを知りたがったんだろうね」
再会。
バシリは、1990年代後半に、人気音楽ヴァラエティー・テレビ番組『サタデイ・ナイト・ライヴ』のハウス・バンドの一員として、マドンナのバックをつけたことがあった。そのときに、プロデューサーからバンドとして他にどんなメンバーを集めたらいいだろうか、と聞かれ、ヴィクター・ベイリー、オマー・ハキム、マイケル・ブレッカー、ポール・ペスコ、そして、マイケル・ベアデンの名前をあげていた。そして、そうしたメンバーでバンドが組まれ、マドンナのバックもすることになった。マイケル・ベアデンとはそれ以前から知り合いで、これ以後、いろいろなセッションで活動をともにするようになっていた。
そして、バシリは2001年9月7日と10日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたマイケルの30周年記念イヴェントのバンド・メンバーとしても参加していた。このときは、バンドが二つあった。ひとつはいろいろなアーティスト、ホイットニーをはじめ、アッシャー、マーク・アンソニー、モニカ、ルーサーなどあの場で歌ったシンガーたちのバックをつけたいわゆる「ハウス・バンド」。もうひとつがマイケルのシーンでバックをつけた「マイケル・ジャクソン・バンド」だ。なんと、バシリは、そのハウス・バンドとマイケル・バンドの両方で、パーカッションを叩いていた。
このときのマイケル・バンドのメンバーは、ジョナサン・モフェット(ドラムス)、ブラッドボックス(キーボード)、アレックス・アル(ベース)、マイケル・ベアデン(キーボード)、デイヴィッド・ウィリアムス(ギター=現在では故人)、音楽ディレクターがグレッグ・フィリンゲインズ(キーボード)、そして、バシリ・ジョンソン(パーカッション)だ。言ってみれば、この時点で、今回の『ディス・イズ・イット』バンドの母体が出来上がっていた、と言ってもいい。
バシリは、このとき、マイケルの弟ランディー・ジャクソンとも会って、話をしている。ランディーもパーカッションをプレイするので、お互い話があった、という。ランディーも、バシリもヴァルジェイというメーカーのパーカッションを使っていたり、それぞれがメンター(師匠)とする人物(ビッグ・ブラックというパーカッション奏者)が共通していたりと話が盛り上がった。
バシリがマイケル・ジャクソンと初めて会ったのは、その2001年ライヴのリハーサルのときだという。パーソナルな話はしなかったが、とても優しくナイス・ガイという印象を持った。
したがって、2009年4月22日は、バシリにとって、マイケルとは約8年弱ぶりの再会ということになった。彼にとってのマイケルとは、二つの意味があった、という。バシリが語る。「ひとつは、みんなが考えるように、このプラネット上の最大で最高のスター、アイコンということ。そして、もうひとつは(自分の)ボス(上司)である、ということだ」
バシリもまた、マイケル・ジャクソンとマドンナというボスに仕えた稀有なミュージシャンということになる。バシリは、この2人のボスについてこう述べる。「彼らには多くの共通点がある。マイケル、マドンナに限らず、(自分がバックを務めた)ビヨンセ、ホイットニーなども含めて、そういうアーティストたちは完璧を目指して、ハードにハードにとにかく一生懸命、自分が納得するまで徹底してやるんだ。自分で設定した基準がものすごく高い。その基準に達するまでとにかくハードにリハーサルを積む。マイケルは兄弟にもハードだった(つらくあたった)けどね(笑)」
もちろん、バシリもそうしたハード・ワークは厭わない。
マイケルは直接、バシリのパフォーマンスに注文をつけたりしたのだろうか。「いや、直接はないんだ。もし何かあれば、(音楽ディレクター=MD)のマイケル・ベアデンを通して注文が来る。ある日にリハをやって、どこか変えて欲しいところがあったら、翌日、ベアデンがここの小節はこうやってくれ、といった細かな指示を紙に書いて出してくる。マイケルが、直接、ベアデンにいろいろ指示してるんだね。映画でもそういうシーンがあっただろう」
(続く)
(明日以降、『ディス・イズ・イット』のさまざまな仕掛け、どの曲をリハーサルをしていたか、映画に出てこないがリハをしあげていた曲などが明かされます)
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