2009年10月16日(金) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
◆グレイト・ストーリーテラー、リオン・ウェアはノンストップでしゃべる
テーマ:インタヴュー
◆グレイト・ストーリーテラー、リオン・ウェアはノンストップでしゃべる
【Leon Ware Is Talking, Talking, Talking...】
語り部。
8月末(2009年8月20日木曜から23日日曜)のリオン・ウェアの来日、公演はソウル・ファンの間で大きな話題になった。2002年11月、大阪・福岡ブルーノートでのライヴ以来約7年ぶりの来日、しかも東京地区は初ということで注目された。
そこでソウル・サーチンでもインタヴューをオファー。土曜(8月22日)本番前にインタヴューする機会に恵まれた。すこし遅くなったが、やっとテープ起こしの一部ができたのでご紹介しよう。
もろもろのセッティング中、前説。「実はあなたには勝手に親しみを感じてるんです。あなたは2月16日生まれですよね」 「ああ、そうだよ」 「僕も2月16日なんですよ」というと、「おおっ、ホントか。えーと、アート・スチュワート知ってるか? モータウンのエンジニア、彼も2月16日だよ。あと、もう一人いたんだが…、だれだっけかな」 「ジェームス・イングラム!」 「ああ、知ってる、彼とは話したことがある。もうひとりいた…。思いだせん」 「テニスのジョン・マッケンローもそうです」 「おお、そうか…。もうひとり。おい、もうひとり誰だっけ…(とアシスタントの息子に尋ねる)」
そして、インタヴューは粛々と始まった。僕が彼に、ありきたりだが、基本的な質問をなげかけた。「あなたとモータウンとの最初のかかわりを教えてください。どのようにモータウンに入ったのですか」
「ウェル…」と言い、姿勢を正しながら彼がゆっくり話し始めた。「ベリー・ゴーディーと知り合ったのは、私が17歳(1957年)のとき、彼がまだモータウンを作るまえのことだった。彼がプロデューサーで、私はシンガーという立場だった。彼が私をプロデュースしたんだ。それは、レコードとしては世にでなかったけどね。それはそれで一旦終わるんだけど、それから3年くらい後かな、ハイスクールの同級生とばったり会ってね、彼が、今、モータウンというところで曲を書いたりしているんだ。一度、遊びに来ないか、と誘ってくれた。それがラモント・ドジャーだ。そのときにはすぐには行かなかったけど、後で行って、いろいろやりだすことになった。モータウンと実際契約するのは、1959年、いや、60年代に入ってかな、1962年だったと思う。それからモータウンには2年ほど在籍した。1964年に去るんだがその年の終わりに、私はアイズレー・ブラザーズの「ガット・トゥ・ハヴ・ユー・バック」で初めてのゴールド・レコードを手に入れるんだ…」 (訳注、この曲は1967年5月からヒットし、ソウル・チャートで47位、ポップ・チャートで93位を記録。このあたりは、若干、年号などで本人の記憶違いもあるかもしれない。なにしろ40年以上前のことだからしかたない。あるいはレコーディングは1964年に行われ、シングルリリース、ヒットが3年後の1967年だったのかもしれない。ここは要再調査だ。またここでリオンが言うゴールド・レコードは、最初の大ヒット曲、くらいのニュアンスだろう)
「あの頃、1曲、いや何曲かマーヴィン用に作った。あの時代はとても実りのある時期だった。何曲書いたかはわからないが、1967年、私はロスアンジェルスに引っ越す。モータウンも1965年か1966年ごろ、(一部のオペレーションを)ロスアンジェルスに移し始める。(訳注、実際の正式な本部の引越しは1972年。それまでに一部スタッフなどがロスに出向き、レコーディングなどを始めていた) その頃、またモータウンで曲を書き出した。ダイアナ・ロスの弟のアーサー・T・ロスと知り合って、一緒に曲を書くようになり始めた。1971年頃かな。姉(=ダイアナ・ロス)が私に弟に協力してあげてというので、いろいろ一緒にやるようになった。1曲書いて、また書いて、一緒にやって4曲目に出来たのが『アイ・ウォント・ユー』だった。それを作っている間に、ベリー・ゴーディーがスタジオにやってきた。これはとても珍しいことなんだ。彼はとても協力的で、父親のように、(僕たちのことを)いろいろ気にかけてくれた。そこで、デモの『アイ・ウォント・ユー』を聴かせた。彼はそれを聴くと、「すごい、気に入った。これはマーヴィン・ゲイにいいんじゃないか。このテープをくれ」と言った。それから3日後、テープを聴いたマーヴィンはものすごくこの曲を気に入ったんだ…。その後私とマーヴィンは実際に会う。彼は1歳僕より年上なんだが、会ってみるとものすごく波長があった。私たちは、同じような趣味を持っていた。実際に彼に会う2年くらい前から共通の友人が、『君とマーヴィンはよく似ている』なんてよく言われていたんだ。『君は、マーヴィンみたいだ』とかね。そういうのは珍しかった。音楽の趣味も、人生に対する考え方も、女性に対しても(笑)、セックスも(笑)、嗜好が似ていた。とても兄弟みたいに近しい存在だった…」
僕はただただ彼が語る話に「フンフン…」とうなずくだけ。リオンはただひたすらしゃべる。そして30分以上過ぎただろうか。リオンが言った。「ああ、そうだ、私はしゃべりだすと、必要のないことまでしゃべってしまい、話が質問からそれてしまうようなことがよくあるんだ。いつでも、私の話をさえぎって、話を正しい方向に持ってってくれていいんだよ」
おっと・・・。(苦笑) もうその時点で、僕の持ち時間はほとんどなくなっていたのだ。
ということで、この続きはまた近いうちに。
■レオン・ウェアがよくしゃべる映像 (英語)(レッドブルがスポンサードしているトーク・セッション)
http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/lectures/leon_ware__come_with_me_angels
約1時間半にわたって、いろいろなことを話します。
ENT>INTERVIEW>Ware, Leon
【Leon Ware Is Talking, Talking, Talking...】
語り部。
8月末(2009年8月20日木曜から23日日曜)のリオン・ウェアの来日、公演はソウル・ファンの間で大きな話題になった。2002年11月、大阪・福岡ブルーノートでのライヴ以来約7年ぶりの来日、しかも東京地区は初ということで注目された。
そこでソウル・サーチンでもインタヴューをオファー。土曜(8月22日)本番前にインタヴューする機会に恵まれた。すこし遅くなったが、やっとテープ起こしの一部ができたのでご紹介しよう。
もろもろのセッティング中、前説。「実はあなたには勝手に親しみを感じてるんです。あなたは2月16日生まれですよね」 「ああ、そうだよ」 「僕も2月16日なんですよ」というと、「おおっ、ホントか。えーと、アート・スチュワート知ってるか? モータウンのエンジニア、彼も2月16日だよ。あと、もう一人いたんだが…、だれだっけかな」 「ジェームス・イングラム!」 「ああ、知ってる、彼とは話したことがある。もうひとりいた…。思いだせん」 「テニスのジョン・マッケンローもそうです」 「おお、そうか…。もうひとり。おい、もうひとり誰だっけ…(とアシスタントの息子に尋ねる)」
そして、インタヴューは粛々と始まった。僕が彼に、ありきたりだが、基本的な質問をなげかけた。「あなたとモータウンとの最初のかかわりを教えてください。どのようにモータウンに入ったのですか」
「ウェル…」と言い、姿勢を正しながら彼がゆっくり話し始めた。「ベリー・ゴーディーと知り合ったのは、私が17歳(1957年)のとき、彼がまだモータウンを作るまえのことだった。彼がプロデューサーで、私はシンガーという立場だった。彼が私をプロデュースしたんだ。それは、レコードとしては世にでなかったけどね。それはそれで一旦終わるんだけど、それから3年くらい後かな、ハイスクールの同級生とばったり会ってね、彼が、今、モータウンというところで曲を書いたりしているんだ。一度、遊びに来ないか、と誘ってくれた。それがラモント・ドジャーだ。そのときにはすぐには行かなかったけど、後で行って、いろいろやりだすことになった。モータウンと実際契約するのは、1959年、いや、60年代に入ってかな、1962年だったと思う。それからモータウンには2年ほど在籍した。1964年に去るんだがその年の終わりに、私はアイズレー・ブラザーズの「ガット・トゥ・ハヴ・ユー・バック」で初めてのゴールド・レコードを手に入れるんだ…」 (訳注、この曲は1967年5月からヒットし、ソウル・チャートで47位、ポップ・チャートで93位を記録。このあたりは、若干、年号などで本人の記憶違いもあるかもしれない。なにしろ40年以上前のことだからしかたない。あるいはレコーディングは1964年に行われ、シングルリリース、ヒットが3年後の1967年だったのかもしれない。ここは要再調査だ。またここでリオンが言うゴールド・レコードは、最初の大ヒット曲、くらいのニュアンスだろう)
「あの頃、1曲、いや何曲かマーヴィン用に作った。あの時代はとても実りのある時期だった。何曲書いたかはわからないが、1967年、私はロスアンジェルスに引っ越す。モータウンも1965年か1966年ごろ、(一部のオペレーションを)ロスアンジェルスに移し始める。(訳注、実際の正式な本部の引越しは1972年。それまでに一部スタッフなどがロスに出向き、レコーディングなどを始めていた) その頃、またモータウンで曲を書き出した。ダイアナ・ロスの弟のアーサー・T・ロスと知り合って、一緒に曲を書くようになり始めた。1971年頃かな。姉(=ダイアナ・ロス)が私に弟に協力してあげてというので、いろいろ一緒にやるようになった。1曲書いて、また書いて、一緒にやって4曲目に出来たのが『アイ・ウォント・ユー』だった。それを作っている間に、ベリー・ゴーディーがスタジオにやってきた。これはとても珍しいことなんだ。彼はとても協力的で、父親のように、(僕たちのことを)いろいろ気にかけてくれた。そこで、デモの『アイ・ウォント・ユー』を聴かせた。彼はそれを聴くと、「すごい、気に入った。これはマーヴィン・ゲイにいいんじゃないか。このテープをくれ」と言った。それから3日後、テープを聴いたマーヴィンはものすごくこの曲を気に入ったんだ…。その後私とマーヴィンは実際に会う。彼は1歳僕より年上なんだが、会ってみるとものすごく波長があった。私たちは、同じような趣味を持っていた。実際に彼に会う2年くらい前から共通の友人が、『君とマーヴィンはよく似ている』なんてよく言われていたんだ。『君は、マーヴィンみたいだ』とかね。そういうのは珍しかった。音楽の趣味も、人生に対する考え方も、女性に対しても(笑)、セックスも(笑)、嗜好が似ていた。とても兄弟みたいに近しい存在だった…」
僕はただただ彼が語る話に「フンフン…」とうなずくだけ。リオンはただひたすらしゃべる。そして30分以上過ぎただろうか。リオンが言った。「ああ、そうだ、私はしゃべりだすと、必要のないことまでしゃべってしまい、話が質問からそれてしまうようなことがよくあるんだ。いつでも、私の話をさえぎって、話を正しい方向に持ってってくれていいんだよ」
おっと・・・。(苦笑) もうその時点で、僕の持ち時間はほとんどなくなっていたのだ。
ということで、この続きはまた近いうちに。
■レオン・ウェアがよくしゃべる映像 (英語)(レッドブルがスポンサードしているトーク・セッション)
http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/lectures/leon_ware__come_with_me_angels
約1時間半にわたって、いろいろなことを話します。
ENT>INTERVIEW>Ware, Leon
1 ■無題
貴重な記録ありがとうございました。
私も、A Kiss in the sand, Moorideあたりのネタを時間があったら出そうかな、と思います。