2009年09月20日(日) 00時01分00秒
soulsearchinの投稿
☆ホイットニー・ヒューストン、オプラに3時間語る(パート2)
テーマ:アーティスト関連
【Whitney Houston Talks To Oprah For More Than 3 Hours】
(昨日の続き。昨日の記事→)http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10345413767.html
(◎ホイットニー・ヒューストン、オプラに3時間語る(パート1)
母娘。
オプラ・ウィンフリーは、ホイットニーを何度か番組に迎えている。2002年、オプラはホイットニーが新作『ジャスト・ホイットニー』を出したときにインタヴューしたがったが、残念ながらその仕事はライヴァルのトーク・ショー司会者ダイアン・ソウヤーに取られてしまった。ダイアン・ソウヤーのインタヴューは話題になり、そこで「ドラッグはやったが、クラックは最悪」の発言が注目を集めた。前作がリリースされたときのプロモーションの一環だったが、オプラはその放送を当時は見なかった。しかし、今回ホイットニーをインタヴューするにあたり、インタヴュー前日に7年前のショーの録画を見たという。
オプラのインタヴュー、2日目パート2は、ホイットニーが家(おそらくニュージャージー、あるいはアトランタか。場所については番組内では出てこない)を出てロスアンジェルスの友人宅に身を寄せるあたりの話しから始まる。ホイットニーは、2006年頃家を出てロスに移動。ホイットニー(1963年8月9日生まれ)と母シシー(1933年9月30日生まれ)、ホイットニーと娘ボビー・クリスティーナ(1993年3月4日生まれ)とのやりとりは感動的だ。
この頃からホイットニーは、ドラッグや結婚、あらゆる悪魔から逃れたいと考えるようになっていた。しかし、ボビーはドラッグをやめようとはしなかった。「もうたくさん」と強く思っていた。そして、何度も何度も祈った。
その頃、ボビーは家の壁という壁に、目の絵を描いていたという。その目が常にホイットニーを見つめていた。
ワン・デイ。
ホイットニーは家を出るときのことをこう語った。「もはや私は(結婚について)決断しなければならないということはわかっていた。こんなお祈りをしたのを覚えている。『神様、1日だけ私に強さをください(give me one day of strength)、そうすれば私はそこのドアから出て行き、もう振り返りませんから』そして、その『1日』がやってきた。私はこう(ボビーに)言って家を後にしたの。『ちょっとお砂糖とミルクを買いに行ってくる、すぐに戻るわ』」
オプラ。「あなたはその時、もう去る日(彼と別れる日)だという決意を固めていた?」
「わかっていた。もう絶対に戻らない、と。そして、ロスアンジェルスに行ったの。それから家具を処分し始めて、家や車を売りに出し、すべてを消し去りたいと思った」
「家を出た後、それとも前に?」
「後よ。私が家を出てから。友達の家に身を寄せていた。私には彼(ボビー)が、この友達のところにいれば、やってこないとわかっていた。彼女(友達)は、もし彼が来たら撃つわよ、と言うだろうってことがわかっていたから」
これがちょうど2006年頃のことだった。彼女は2着のパンツ、いくつかのスニーカー、少しだけ下着をドギー・バッグに詰め込み、飛行機に乗った。もはや世間がどう見るかなどはまったく考えなかった。ホイットニーは、こんなでたらめな結婚生活は耐えられないと思った。しかし、ボビーはホイットニーとまったく逆だった、という。2人の亀裂は修復しがたかった。ホイットニーは自身が家を出る前に、ボビー・クリスティーナを先に兄ゲイリーのところに預けていた。ゲイリーの妻、ホイットニーから見ると義理の姉(パット)が、娘クリスティーナの面倒をみてくれた。
こうして彼らはマスコミに知られることなく別居した。
きっぱりと別れを告げ失意のホイットニーに力となってくれたのが、母シシー・ヒューストンだった。「そうした悪いものを外に出しなさい」と励ました。シシーは言った。「私はあなたがなんと言おうと気にしないよ。私は自分の子供のことをよく知っている。私はあなたの目を見ているんだから。あなたが幸せでないことはわかるんだよ。この中から抜け出せなければ、よからぬことが起こるわよ。私は決して(あなたのことを)諦めないからね」
ホイットニーとボビーとの争いを、娘は多く目撃してしまった。「彼女はあまりに多くを見すぎてしまった。(私の顔に)つばをはきかけるだけで十分でしょう。クリスティーナは言った。『ママ、パパはあなたの顔につばをはきかけたの?』 私は彼女の目を見つめて言った。『そうよ、でも、いいの』 すると彼女は言った。『ノー、よくないわ。絶対よくない、ノー。正しくないもの』 私は言った。『お願い、私のために、言うことを聴いて。私は神様を信じている。だからあなたは私を信じて。今は、あなたには理解できないかもしれないけれど、でも、ただ、私を信じて。私はあなたをどこにもやらないわ。私はあなたを生涯離しませんから。だから、ただ私を信じて。この状態から抜け出ましょう。そうすれば私たち、きっと幸せになれるわよ。そして、あなたが大人になったら、私は少しずつ、どういう風に物事が起こって、なぜママが家を出なければならなくなったか説明してあげるわ』」
だが、ホイットニーとクリスティーナがカリフォルニアに行っても、娘は依然父親を置いて家を出てきたことを怒っていた。彼女は反抗してきた。「でも私は(神様の)扉をノックし続け、跪いて(ひざまずいて)、祈り続け、彼女に愛してると言い続けた」 だが一方で、ホイットニーは彼(ボビー)を待っていた。戻ってきてくれることを待っていた。
オプラ。「あなたは、カリフォルニアに行っても、まだボビーを待ち、よりを戻そうと思っていたの?」
「そう、私は待っていた」
「では何が最終的な決断をするきっかけに?」
彼女はラグアナという場所に小さな家を求め、静かに暮らしていた。彼は戻ってくると言っていたが、結局、戻ってこなかった。ホイットニーは娘が心配だった。特に娘が父親に対してどう思うかを懸念した。ホイットニーはいろいろな夫婦関係を細かに説明していたが、それでも13歳でインターネットを触れるようになると、さまざまなことをネットを通じて知るようになる。「ママ、これはパパなの?」 彼女は父が別の女性といる写真を見ていた。
そして娘はついに言った。「ひどいわ。彼と別れなさいよ」 娘はホイットニーに言った。「私はママのことをよく見ている。ママは私と一緒にいてくれる。ママは私を愛してる。学校にも連れてってくれる。一緒にいろんなことをしてくれる。私を失望させることはない。私に嘘もつかない。いつでも私のそばにいる。でもパパは来ると言って、決して来ない。何か(プレゼントを)くれると言ってくれたためしはない。ママはこんな仕打ちを受けることはないわ。私も」
オプラ。「もし、娘さんがそう言ってくれなかったら、あなたはまだ待ち続けたのかしら。あるいは、これはターニング・ポイントになった?」
「私のスピリット(精神)は、私を去らせなかったでしょうね。神のスピリットは誰よりも強い。ある点で、決断を促してくれる。義理の姉がとても私のことを思ってくれ祈ってくれた。兄も、私のファミリー、みんなが。いつでも私の傍らにいてくれる人たちがいたの」
「そして、もうひとり、クライヴ・デイヴィス(註:所属レコード会社の社長、ホイットニーをデビューからスターに育てた恩人。今回のカンバックの大立役者)がこう言ったの。『(ホイットニーのキャリアが)終わったなんてことは、あり得ない。神様は終わったなんて言ってない。こんな形で終わらせるなんて到底できない。君にはまだまだ才能が残っている』 私は(その言葉に)驚いた。そして彼は続けた。『1年の時間を君に与えよう。それから決断しなさい。だけど、世界は待っているよ。世界は再び君の歌を聴きたがってるんだよ』」
ホイットニーがグロッセリー・ストアなどに行くと人が寄ってきて「次のアルバムはいつ出るの? あなたの歌が聴きたいわ」と言う。彼女自身もそうした言葉に励まされた。そして、母親に大きな決断をさせることになった娘は今では、随分と母に似てきている、という。
生き抜く(Come-Through)。
この後、亡くなった父親とのことが語られ、最後にマイケル・ジャクソンの話がでた。マイケルとは20年以上知っていて、よく電話などで話していた、という。
特に2001年9月、マイケルの30周年イヴェントが行われ会ったときには、ホイットニーは自身の姿を見ているようで恐かった、という。そして「こんな風になりたくない」と思ったそうだ。それはマイケルがものすごく痩せていたからだ。当時ホイットニーも精神的に追い詰められていて、また自分もドラッグをやっていて痩せていたので、そうしたものと同じものをマイケルに見たらしい。マイケルとは彼が裁判中に、よく電話で話したという。その死を聞いたときには、「打ちのめされた」という。
そして新作アルバムの話を少し。「アイ・ルック・トゥ・ユー」は、Rケリーがもう10年以上前に書いた曲だという。最初に今回のアルバムの候補として聴かされたとき、ホイットニーは自分が人々に伝えたい、まさにそんなメッセージを持った曲だと思った。どうやってその苦悩の時期を切り抜けたか、厳しい時をどのように克服したか。彼女自身以上にこの曲はすべてを語っている。「そう、私以上にね。はるかに私以上にね。あなたや私以上に大きいわ」 だからこそ、アルバムをこのタイトルにした。「これがアルバムのエッセンスを掴んでいるから。このアルバムを物語る、もっとも本質的なことをこの曲は歌っている」
オプラはもう1曲、「アイ・ディドント・ノウ・マイ・オウン・ストレンス(私は自分の強さを知らなかった)(邦題、夢をとりもどすまで)」も気に入っていた。彼女は聞く。「これは、あなたの経験のエッセンスから来ているものかしら」
ホイットニーは言う。「これを考えるとき、歌うとき、歌い始めると、私自身をはるかに超えてしまう。私以上に苦労している人を思い浮かべてしまう。たとえばガンを患っている人、家庭内暴力などで本当に死にもの狂いで戦っている人、あるいはシングル・ペアレントのこと、母も父も、そういう状況で育つ子供も…。我が家のことだけではなくね。そうした状況、境遇にいる多くの他の人のことに深く想いをはせるとき、この曲はそうしたみんなの歌だと思う」
そして、番組では彼女がこの歌を歌った。
http://www.oprah.com/media/20090903-tows-whitney-houston-sings
最後、オプラがホイットニーに尋ねた。「あなたは、これをカンバック(comeback)だと思いますか? あるいは、抜け出た、生き抜いた、やり遂げた(come-through)、ということでしょうか?」
ホイットニーは答えた。「生き抜いてやり遂げた、ということだと思うわ。生きぬいた瞬間だと思う(moment of come-through)。Rケリーが書いた曲があるの。『これをカンバックと呼ばないで。私はずっとここにいたのだから(Don't call it a comeback. I've been here for years)』という歌詞よ。(アルバムに収録されている「サルート」という曲)」
生き抜いた瞬間、それがあったからこそ、今度の新作は全米アルバム・チャート1位初登場、しかも、17年ぶりのアルバム1位という結果になったのだろう。ジャケット写真を見て、「おお、苦労してるんだねえ」と一言言った人がいた。人生は顔に現われる。しかし、苦悩と苦労が顔に出ても、それを乗り越えた今、ファンとしては言いたい。ホイットニー、復活おめでとう。
詳細はオプラのウェッブに掲載されている。文字で全文が読めます。映像もアップされました。
http://www.oprah.com/article/oprahshow/pkgscreeningroom/20090831-tows-whitney-houston#print
■ 『山野ミュージックジャム』(「ソウル・ブレンズ」内=毎週日曜午後4時半、インターFM76.1mhz)、2009年9月20日放送で、ホイットニーのこの新作アルバムを紹介します。
■ ホイットニー関連記事
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10342830088.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10345413767.html
(◎ホイットニー・ヒューストン、オプラに3時間語る(パート1)
■ ホイットニー・ヒューストン 7年ぶりの新作『アイ・ルック・トゥ・ユー』~全米1位初登場
このアルバムの日本盤解説は松尾潔さん。熱のこもったライナーです。ぜひ日本盤を。そして、新聞広告用に彼が書いたホイットニーへの散文もすばらしい。その散文は下記で読めます。このアルバムとホイットニーのこのインタヴューで語られているようなことを端的に記した見事な文章です。
http://lx03.www.tsutaya.co.jp/tol/news/index.pl?c=entertain&c2=music&artid=12299
歌いつづける人生が夢だった。歌うことは生きることだった。
歌う私を見て、古いシネマのヒロインのようだと人は言った。
数年後、ほんとうに映画のヒロインになった。
おおぜいの傷ついた兵士のために歌ったことがある。
私の声は子守唄のように癒してくれると彼らは言った。
ほんとうの愛の意味も知らずに愛を歌っていた。
それでも人は聴いてくれた。涙をながしてくれた。
ここにはうつくしい愛があると。
運命の恋をして、命をかけてその人を愛した。
新しい生命を授かり、本物の子守唄を歌った。
傷つけあうことで情熱をたしかめた。
うしなった愛に悔いはない。
新しいだけのうたはいらない。
最高のうたを歌いたい。
今ならば、今だから、私に歌えるうたがある。
夢はとりもどせる。
松尾 潔
ENT>ARTIST>Houston, Whitney
ENT>TV>Winfrey, Oprah
(昨日の続き。昨日の記事→)http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10345413767.html
(◎ホイットニー・ヒューストン、オプラに3時間語る(パート1)
母娘。
オプラ・ウィンフリーは、ホイットニーを何度か番組に迎えている。2002年、オプラはホイットニーが新作『ジャスト・ホイットニー』を出したときにインタヴューしたがったが、残念ながらその仕事はライヴァルのトーク・ショー司会者ダイアン・ソウヤーに取られてしまった。ダイアン・ソウヤーのインタヴューは話題になり、そこで「ドラッグはやったが、クラックは最悪」の発言が注目を集めた。前作がリリースされたときのプロモーションの一環だったが、オプラはその放送を当時は見なかった。しかし、今回ホイットニーをインタヴューするにあたり、インタヴュー前日に7年前のショーの録画を見たという。
オプラのインタヴュー、2日目パート2は、ホイットニーが家(おそらくニュージャージー、あるいはアトランタか。場所については番組内では出てこない)を出てロスアンジェルスの友人宅に身を寄せるあたりの話しから始まる。ホイットニーは、2006年頃家を出てロスに移動。ホイットニー(1963年8月9日生まれ)と母シシー(1933年9月30日生まれ)、ホイットニーと娘ボビー・クリスティーナ(1993年3月4日生まれ)とのやりとりは感動的だ。
この頃からホイットニーは、ドラッグや結婚、あらゆる悪魔から逃れたいと考えるようになっていた。しかし、ボビーはドラッグをやめようとはしなかった。「もうたくさん」と強く思っていた。そして、何度も何度も祈った。
その頃、ボビーは家の壁という壁に、目の絵を描いていたという。その目が常にホイットニーを見つめていた。
ワン・デイ。
ホイットニーは家を出るときのことをこう語った。「もはや私は(結婚について)決断しなければならないということはわかっていた。こんなお祈りをしたのを覚えている。『神様、1日だけ私に強さをください(give me one day of strength)、そうすれば私はそこのドアから出て行き、もう振り返りませんから』そして、その『1日』がやってきた。私はこう(ボビーに)言って家を後にしたの。『ちょっとお砂糖とミルクを買いに行ってくる、すぐに戻るわ』」
オプラ。「あなたはその時、もう去る日(彼と別れる日)だという決意を固めていた?」
「わかっていた。もう絶対に戻らない、と。そして、ロスアンジェルスに行ったの。それから家具を処分し始めて、家や車を売りに出し、すべてを消し去りたいと思った」
「家を出た後、それとも前に?」
「後よ。私が家を出てから。友達の家に身を寄せていた。私には彼(ボビー)が、この友達のところにいれば、やってこないとわかっていた。彼女(友達)は、もし彼が来たら撃つわよ、と言うだろうってことがわかっていたから」
これがちょうど2006年頃のことだった。彼女は2着のパンツ、いくつかのスニーカー、少しだけ下着をドギー・バッグに詰め込み、飛行機に乗った。もはや世間がどう見るかなどはまったく考えなかった。ホイットニーは、こんなでたらめな結婚生活は耐えられないと思った。しかし、ボビーはホイットニーとまったく逆だった、という。2人の亀裂は修復しがたかった。ホイットニーは自身が家を出る前に、ボビー・クリスティーナを先に兄ゲイリーのところに預けていた。ゲイリーの妻、ホイットニーから見ると義理の姉(パット)が、娘クリスティーナの面倒をみてくれた。
こうして彼らはマスコミに知られることなく別居した。
きっぱりと別れを告げ失意のホイットニーに力となってくれたのが、母シシー・ヒューストンだった。「そうした悪いものを外に出しなさい」と励ました。シシーは言った。「私はあなたがなんと言おうと気にしないよ。私は自分の子供のことをよく知っている。私はあなたの目を見ているんだから。あなたが幸せでないことはわかるんだよ。この中から抜け出せなければ、よからぬことが起こるわよ。私は決して(あなたのことを)諦めないからね」
ホイットニーとボビーとの争いを、娘は多く目撃してしまった。「彼女はあまりに多くを見すぎてしまった。(私の顔に)つばをはきかけるだけで十分でしょう。クリスティーナは言った。『ママ、パパはあなたの顔につばをはきかけたの?』 私は彼女の目を見つめて言った。『そうよ、でも、いいの』 すると彼女は言った。『ノー、よくないわ。絶対よくない、ノー。正しくないもの』 私は言った。『お願い、私のために、言うことを聴いて。私は神様を信じている。だからあなたは私を信じて。今は、あなたには理解できないかもしれないけれど、でも、ただ、私を信じて。私はあなたをどこにもやらないわ。私はあなたを生涯離しませんから。だから、ただ私を信じて。この状態から抜け出ましょう。そうすれば私たち、きっと幸せになれるわよ。そして、あなたが大人になったら、私は少しずつ、どういう風に物事が起こって、なぜママが家を出なければならなくなったか説明してあげるわ』」
だが、ホイットニーとクリスティーナがカリフォルニアに行っても、娘は依然父親を置いて家を出てきたことを怒っていた。彼女は反抗してきた。「でも私は(神様の)扉をノックし続け、跪いて(ひざまずいて)、祈り続け、彼女に愛してると言い続けた」 だが一方で、ホイットニーは彼(ボビー)を待っていた。戻ってきてくれることを待っていた。
オプラ。「あなたは、カリフォルニアに行っても、まだボビーを待ち、よりを戻そうと思っていたの?」
「そう、私は待っていた」
「では何が最終的な決断をするきっかけに?」
彼女はラグアナという場所に小さな家を求め、静かに暮らしていた。彼は戻ってくると言っていたが、結局、戻ってこなかった。ホイットニーは娘が心配だった。特に娘が父親に対してどう思うかを懸念した。ホイットニーはいろいろな夫婦関係を細かに説明していたが、それでも13歳でインターネットを触れるようになると、さまざまなことをネットを通じて知るようになる。「ママ、これはパパなの?」 彼女は父が別の女性といる写真を見ていた。
そして娘はついに言った。「ひどいわ。彼と別れなさいよ」 娘はホイットニーに言った。「私はママのことをよく見ている。ママは私と一緒にいてくれる。ママは私を愛してる。学校にも連れてってくれる。一緒にいろんなことをしてくれる。私を失望させることはない。私に嘘もつかない。いつでも私のそばにいる。でもパパは来ると言って、決して来ない。何か(プレゼントを)くれると言ってくれたためしはない。ママはこんな仕打ちを受けることはないわ。私も」
オプラ。「もし、娘さんがそう言ってくれなかったら、あなたはまだ待ち続けたのかしら。あるいは、これはターニング・ポイントになった?」
「私のスピリット(精神)は、私を去らせなかったでしょうね。神のスピリットは誰よりも強い。ある点で、決断を促してくれる。義理の姉がとても私のことを思ってくれ祈ってくれた。兄も、私のファミリー、みんなが。いつでも私の傍らにいてくれる人たちがいたの」
「そして、もうひとり、クライヴ・デイヴィス(註:所属レコード会社の社長、ホイットニーをデビューからスターに育てた恩人。今回のカンバックの大立役者)がこう言ったの。『(ホイットニーのキャリアが)終わったなんてことは、あり得ない。神様は終わったなんて言ってない。こんな形で終わらせるなんて到底できない。君にはまだまだ才能が残っている』 私は(その言葉に)驚いた。そして彼は続けた。『1年の時間を君に与えよう。それから決断しなさい。だけど、世界は待っているよ。世界は再び君の歌を聴きたがってるんだよ』」
ホイットニーがグロッセリー・ストアなどに行くと人が寄ってきて「次のアルバムはいつ出るの? あなたの歌が聴きたいわ」と言う。彼女自身もそうした言葉に励まされた。そして、母親に大きな決断をさせることになった娘は今では、随分と母に似てきている、という。
生き抜く(Come-Through)。
この後、亡くなった父親とのことが語られ、最後にマイケル・ジャクソンの話がでた。マイケルとは20年以上知っていて、よく電話などで話していた、という。
特に2001年9月、マイケルの30周年イヴェントが行われ会ったときには、ホイットニーは自身の姿を見ているようで恐かった、という。そして「こんな風になりたくない」と思ったそうだ。それはマイケルがものすごく痩せていたからだ。当時ホイットニーも精神的に追い詰められていて、また自分もドラッグをやっていて痩せていたので、そうしたものと同じものをマイケルに見たらしい。マイケルとは彼が裁判中に、よく電話で話したという。その死を聞いたときには、「打ちのめされた」という。
そして新作アルバムの話を少し。「アイ・ルック・トゥ・ユー」は、Rケリーがもう10年以上前に書いた曲だという。最初に今回のアルバムの候補として聴かされたとき、ホイットニーは自分が人々に伝えたい、まさにそんなメッセージを持った曲だと思った。どうやってその苦悩の時期を切り抜けたか、厳しい時をどのように克服したか。彼女自身以上にこの曲はすべてを語っている。「そう、私以上にね。はるかに私以上にね。あなたや私以上に大きいわ」 だからこそ、アルバムをこのタイトルにした。「これがアルバムのエッセンスを掴んでいるから。このアルバムを物語る、もっとも本質的なことをこの曲は歌っている」
オプラはもう1曲、「アイ・ディドント・ノウ・マイ・オウン・ストレンス(私は自分の強さを知らなかった)(邦題、夢をとりもどすまで)」も気に入っていた。彼女は聞く。「これは、あなたの経験のエッセンスから来ているものかしら」
ホイットニーは言う。「これを考えるとき、歌うとき、歌い始めると、私自身をはるかに超えてしまう。私以上に苦労している人を思い浮かべてしまう。たとえばガンを患っている人、家庭内暴力などで本当に死にもの狂いで戦っている人、あるいはシングル・ペアレントのこと、母も父も、そういう状況で育つ子供も…。我が家のことだけではなくね。そうした状況、境遇にいる多くの他の人のことに深く想いをはせるとき、この曲はそうしたみんなの歌だと思う」
そして、番組では彼女がこの歌を歌った。
http://www.oprah.com/media/20090903-tows-whitney-houston-sings
最後、オプラがホイットニーに尋ねた。「あなたは、これをカンバック(comeback)だと思いますか? あるいは、抜け出た、生き抜いた、やり遂げた(come-through)、ということでしょうか?」
ホイットニーは答えた。「生き抜いてやり遂げた、ということだと思うわ。生きぬいた瞬間だと思う(moment of come-through)。Rケリーが書いた曲があるの。『これをカンバックと呼ばないで。私はずっとここにいたのだから(Don't call it a comeback. I've been here for years)』という歌詞よ。(アルバムに収録されている「サルート」という曲)」
生き抜いた瞬間、それがあったからこそ、今度の新作は全米アルバム・チャート1位初登場、しかも、17年ぶりのアルバム1位という結果になったのだろう。ジャケット写真を見て、「おお、苦労してるんだねえ」と一言言った人がいた。人生は顔に現われる。しかし、苦悩と苦労が顔に出ても、それを乗り越えた今、ファンとしては言いたい。ホイットニー、復活おめでとう。
詳細はオプラのウェッブに掲載されている。文字で全文が読めます。映像もアップされました。
http://www.oprah.com/article/oprahshow/pkgscreeningroom/20090831-tows-whitney-houston#print
■ 『山野ミュージックジャム』(「ソウル・ブレンズ」内=毎週日曜午後4時半、インターFM76.1mhz)、2009年9月20日放送で、ホイットニーのこの新作アルバムを紹介します。
■ ホイットニー関連記事
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10342830088.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10345413767.html
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■ ホイットニー・ヒューストン 7年ぶりの新作『アイ・ルック・トゥ・ユー』~全米1位初登場
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このアルバムの日本盤解説は松尾潔さん。熱のこもったライナーです。ぜひ日本盤を。そして、新聞広告用に彼が書いたホイットニーへの散文もすばらしい。その散文は下記で読めます。このアルバムとホイットニーのこのインタヴューで語られているようなことを端的に記した見事な文章です。
http://lx03.www.tsutaya.co.jp/tol/news/index.pl?c=entertain&c2=music&artid=12299
歌いつづける人生が夢だった。歌うことは生きることだった。
歌う私を見て、古いシネマのヒロインのようだと人は言った。
数年後、ほんとうに映画のヒロインになった。
おおぜいの傷ついた兵士のために歌ったことがある。
私の声は子守唄のように癒してくれると彼らは言った。
ほんとうの愛の意味も知らずに愛を歌っていた。
それでも人は聴いてくれた。涙をながしてくれた。
ここにはうつくしい愛があると。
運命の恋をして、命をかけてその人を愛した。
新しい生命を授かり、本物の子守唄を歌った。
傷つけあうことで情熱をたしかめた。
うしなった愛に悔いはない。
新しいだけのうたはいらない。
最高のうたを歌いたい。
今ならば、今だから、私に歌えるうたがある。
夢はとりもどせる。
松尾 潔
ENT>ARTIST>Houston, Whitney
ENT>TV>Winfrey, Oprah
1 ■どーもです!
久々のアルバムでしたから顔のお直しもばっちり?でしたね~