2009年05月17日(日) 05時33分56秒
soulsearchinの投稿
■永六輔にエグザイルを教えた男、松尾潔
テーマ:ブログ
【新旧レコード大賞受賞作詞家の邂逅】
邂逅。
松尾潔さんが、2009年3月21日(土)にTBSラジオの番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』にゲスト出演し、彼が学生時代を過ごした阿佐ヶ谷周辺をレポートした。松尾さんがこの番組に出るのは初めてで、永さんは松尾さんがエグザイルの作詞をしていることをスタッフから教わるが、なんとエグザイルの存在自体を知らなかった。そのことには、リスナーから多数の電話がかかってきたが、永さんは松尾さんとのやりとりがおもしろかったので、彼に興味を持った。ほとんど日本の曲をかけない番組ながら、当日は番組後半でエグザイルの曲をかけたことにスタッフも驚いたという。そこで改めて松尾さんへのスタジオでの出演依頼がきて、昨日(2009年5月16日)、ゲスト出演を果たした。
午後12時20分すぎから、途中に新型インフルエンザのニュースがはいってきてしまったため、20分程度の出演になってしまったが、これがおもしろかった。
永さんは開口一番、「僕も作詞をしていました。でも、あるとき、中村八大(作曲家、永さん作詞で多数の作品がある)に『これからはもう言葉とメロディーじゃない。これからはビートの時代だ。だからあなたには(作詞は)もう無理だと思う』と言われて、他にもいろいろあったんですが、それでやめたんです」と約40年前(1968年前後)に作詞をやめた理由を語った。
そして、「くわ…」と言って口ごもり、その瞬間、松尾さんが「くわたけいすけ(桑田佳祐)さんですか?」と返し、「そうそう、その桑田佳祐、あそこからわからない。歌詞がわからない。…(最近の作品は)言葉が選ばれてない。言いたいこと全部言っちゃってるから。そんな感じがするんですね」と言ったのだ。この永さんの「くわ…」と松尾さんの受けが最高におもしろかった。
中村八大氏が40年以上も前に、これからはビートの時代だと言ったのも大変な慧眼(けいがん)だが、その点に意見を求められた松尾さんは「(半分は同意しつつ)それでも、変わり行く変わらないものがあります」と現状を説明した。
永さんはさらに「みんなが(一緒に)歌う曲が今はない。ある時代、ある世代、ある場所でめちゃくちゃ支持されてる。でも、そのほかが置いてけぼりになってる」と現状を嘆き、「最近はみんなパーソナルなことばかり歌うんですか」と松尾さんに尋ねる。「たしかに、日記から出てきたような詞が多いですね」と松尾さん。
永さんが作詞をやめようと思ったその頃の1968年、松尾さんが九州・福岡に誕生する。そんな松尾さんと永さんとの最初の接点は、松尾さんが小学校3-4年頃(1975年~76年頃)、九州・佐賀の市民会館で行われた「永六輔、江藤淳の講演会」のときだった。母親が江藤淳氏の著作『海舟余波』(1974年発表)をもち、講演会後、サインをもらおうと出口で待っていると、そこに永さんが現れ、その江藤さんの本に無理やりサインをもらったというのだ。永さんはそのとき、「私でいいんですか」と苦笑したそうだが、母は「いいんです」と答え、サインをもらったという。そしてそのとき永さんが少年の頭をなでたことを松尾さんはよく覚えている。松尾さん曰く「まあ、今から思えば初めて見た文化人だった」。
1933年4月10日生まれの永さんは、1959年12月、第1回レコード大賞で水原弘の「黒い花びら」で作詞を担当、大賞を受賞する。それから49年後、ちょうど第50回のレコード大賞(2008年12月)で松尾さんはエグザイルの「ティアモ(Ti Amo)」で大賞受賞。
この日の永六輔・松尾潔対談は、レコード大賞の半世紀の歴史、第1回と第50回という節目を飾るふたりの対談となった。
ちなみに1933年という年は奇しくも、永さんのほかに、松尾さんに大きな影響を与えたクインシー・ジョーンズ、さらに、ジェームス・ブラウンの生年でもある。最初、この番組に出演を依頼されたときは、「(それらを含めて)あらゆる点で、感無量でした」と松尾さんは言った。
新旧レコード大賞受賞作詞家の邂逅、ここにありだ。
ENT>RADIO>Ei, Rokusuke
ENT>SONGWRITER>Ei, Rokusuke / Matsuo Kiyoshi
邂逅。
松尾潔さんが、2009年3月21日(土)にTBSラジオの番組『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』にゲスト出演し、彼が学生時代を過ごした阿佐ヶ谷周辺をレポートした。松尾さんがこの番組に出るのは初めてで、永さんは松尾さんがエグザイルの作詞をしていることをスタッフから教わるが、なんとエグザイルの存在自体を知らなかった。そのことには、リスナーから多数の電話がかかってきたが、永さんは松尾さんとのやりとりがおもしろかったので、彼に興味を持った。ほとんど日本の曲をかけない番組ながら、当日は番組後半でエグザイルの曲をかけたことにスタッフも驚いたという。そこで改めて松尾さんへのスタジオでの出演依頼がきて、昨日(2009年5月16日)、ゲスト出演を果たした。
午後12時20分すぎから、途中に新型インフルエンザのニュースがはいってきてしまったため、20分程度の出演になってしまったが、これがおもしろかった。
永さんは開口一番、「僕も作詞をしていました。でも、あるとき、中村八大(作曲家、永さん作詞で多数の作品がある)に『これからはもう言葉とメロディーじゃない。これからはビートの時代だ。だからあなたには(作詞は)もう無理だと思う』と言われて、他にもいろいろあったんですが、それでやめたんです」と約40年前(1968年前後)に作詞をやめた理由を語った。
そして、「くわ…」と言って口ごもり、その瞬間、松尾さんが「くわたけいすけ(桑田佳祐)さんですか?」と返し、「そうそう、その桑田佳祐、あそこからわからない。歌詞がわからない。…(最近の作品は)言葉が選ばれてない。言いたいこと全部言っちゃってるから。そんな感じがするんですね」と言ったのだ。この永さんの「くわ…」と松尾さんの受けが最高におもしろかった。
中村八大氏が40年以上も前に、これからはビートの時代だと言ったのも大変な慧眼(けいがん)だが、その点に意見を求められた松尾さんは「(半分は同意しつつ)それでも、変わり行く変わらないものがあります」と現状を説明した。
永さんはさらに「みんなが(一緒に)歌う曲が今はない。ある時代、ある世代、ある場所でめちゃくちゃ支持されてる。でも、そのほかが置いてけぼりになってる」と現状を嘆き、「最近はみんなパーソナルなことばかり歌うんですか」と松尾さんに尋ねる。「たしかに、日記から出てきたような詞が多いですね」と松尾さん。
永さんが作詞をやめようと思ったその頃の1968年、松尾さんが九州・福岡に誕生する。そんな松尾さんと永さんとの最初の接点は、松尾さんが小学校3-4年頃(1975年~76年頃)、九州・佐賀の市民会館で行われた「永六輔、江藤淳の講演会」のときだった。母親が江藤淳氏の著作『海舟余波』(1974年発表)をもち、講演会後、サインをもらおうと出口で待っていると、そこに永さんが現れ、その江藤さんの本に無理やりサインをもらったというのだ。永さんはそのとき、「私でいいんですか」と苦笑したそうだが、母は「いいんです」と答え、サインをもらったという。そしてそのとき永さんが少年の頭をなでたことを松尾さんはよく覚えている。松尾さん曰く「まあ、今から思えば初めて見た文化人だった」。
1933年4月10日生まれの永さんは、1959年12月、第1回レコード大賞で水原弘の「黒い花びら」で作詞を担当、大賞を受賞する。それから49年後、ちょうど第50回のレコード大賞(2008年12月)で松尾さんはエグザイルの「ティアモ(Ti Amo)」で大賞受賞。
この日の永六輔・松尾潔対談は、レコード大賞の半世紀の歴史、第1回と第50回という節目を飾るふたりの対談となった。
ちなみに1933年という年は奇しくも、永さんのほかに、松尾さんに大きな影響を与えたクインシー・ジョーンズ、さらに、ジェームス・ブラウンの生年でもある。最初、この番組に出演を依頼されたときは、「(それらを含めて)あらゆる点で、感無量でした」と松尾さんは言った。
新旧レコード大賞受賞作詞家の邂逅、ここにありだ。
ENT>RADIO>Ei, Rokusuke
ENT>SONGWRITER>Ei, Rokusuke / Matsuo Kiyoshi