NO.502
2004/01/05 (Mon)
A Boy I Met At New Year's Eve
環境。

年越し蕎麦を食べ終え、うちに帰る途中友人からメールが入った。「OXのうちのカウンタダウンのホームパーティーに行かない?」というものだった。まあ、特にすることもないので、あまり乗り気ではなかったが、行くことにした。

その家の主はスウェーデン人。すでに人が集まっていた。全部で4-50人はいただろうか。そして、ずいぶんと外人比率が高いホームパーティーだった。

音楽が流れ、映画のDVDが音を出さずに映像だけモニターから映し出されていた。会話の喧騒の中で、甚平のような着物を着た短髪の丸刈りの男の子がいた。十代に見える彼は、床にほぼ正座していた。その髪の色がちょっと茶髪っぽかったことと容姿からハーフのように見えた。

カウントダウンが進む。「5・・4・・3・・2・・1」 「ハッピーニューイヤー!」 自分でもなぜそこにいるのかよくわからなかったが、ぼーとしていると、大きな音で「ハッピーニューイヤー」という曲がかかった。ポップでわかりやすいメロディー。一体だれだろう。僕は初めて聴いた。今年はどんな年になるのだろうかと思いながら、中二階から階下の人たちをぼんやり眺めていた。

一段落してから、その彼と話す機会が訪れた。「学生?」 「え〜」 「いくつ?」 「16です」 「ええええっ?」 十代とは思ったが、その若さにまず驚いた。彼はその日、そこへやってきた経緯を簡単に説明してくれた。大阪の友人に誘われこのパーティーに来たこと、もちろんこのようなパーティーは初めてだということなど。その話し振りはとても、今時の16歳とは思えなかった。しっかりした、きちんとした日本語でしかも敬語もできていて、眼をつぶって聴いていると30代か40代くらいの人と話をしているのではないかと錯覚してしまうほどだった。彼は自分のことを「僕」や「オレ」ではなく、「私(わたし)」というのだ。話し振りが落ち着いていて、そのことにも驚いた。

BGMは、いつの間にかアフターアワーズ系のスローっぽい曲になっていた。「将来、何をしたいの?」と僕は訊いた。「将来、自分の名前のついた番組をやって、いろんな人をゲストに迎えて、お話したいんです。トーク番組をやってみたいんです。で、そのためには歌をやったり、演技なんかもやってみたいと思っています」 しっかりとした口調で彼は自分の明確な目標を語った。

今まで、関西のほうにいたが、この12月から東京にいる母親のところに戻って、一緒に暮らしているという。そして、彼のそれまでの人生を聴いて、僕はまたまた驚いた。16歳だが、すでに語るべきストーリーを持っていたのだ。「すばらしいストーリーだねえ」と言うと「ストーリーですか?」と彼は笑った。

紙コップが散らかり、けだるい空気が漂うなか彼は語り始めた。彼の名は、ここでは仮に次郎君としよう。次郎君は1987年、ブラジルに生まれた。3人兄弟の真中。上に兄と下に妹がいる。彼の母親は日系ブラジル人。つまり、血筋は日本人だ。だが、彼は父親を知らない。会ったことがないという。イギリス系ブラジル人らしい。4歳の時、日本にやってきた。

次郎君の母親のお父さん、つまり次郎君の母方の祖父は彼が生まれる前に亡くなっていた。そしてその祖母が再婚することになるのだが、祖母が再婚した翌日、次郎君が生まれた。その新しく再婚した相手は、現地でお寺を営むお坊さんだった。

母親は来日し、都内に住み、朝から夜遅くまで仕事をして、3人の子供の生活を支えていた。3人の兄弟のうち、次郎君だけが、いかにも外人風の容姿をしていた。そのことが理由となってか、まもなく兄の壮絶ないじめが始まった。2つ上の兄の暴力には耐えがたいものがあったが、昼間は母親がいないので、どうしようもなかった。母親が朝早くから仕事にでるため、朝御飯や、晩御飯は幼い妹が作っていた。

次郎君が小学校2年頃のこと。8歳くらいか。母親は彼に、その出生の秘密を打ち明けた。彼がなぜ他の二人と容姿が違うのか。実は、母親が一晩限りの相手をしてできた子供が次郎君だったのだ。そして、3人とも父親が違うということで、母の両親は、母親のことを決してよく言わなかった。「あんなあばずれ・・・」

小学校2年でそんなことを打ち明けられて、理解できるのだろうか。「え〜、淡々と聴いていました。ああ、そうかって感じで」と彼は言う。そして彼が中学に進学する時、お寺に修行に行かないかという話が持ち上がった。再婚した祖父がお坊さんだったこと、その再婚した翌日に次郎君が生まれたことで、祖父は次郎君に運命的なものを感じ、ぜひ寺を継がせたいと願い次郎君にお坊さんになってほしいと思ったのだ。

小学校6年、次郎君は考えた。「ここのうちから出て、お寺に修行にでれば、おじいさんの期待にもこたえられる。それから兄の暴力から逃げられる。つまり厳しい現実から逃避できる。そして、自分がこの家から出て行くことによって、家計が少しでも楽になれば母親にとってもいいだろう」 こうして、彼は関西のお寺に修行にでる決意をした。中学一年になる前の決断だ。

お寺の修行は厳しい。毎朝3時半起き。朝のお勤めなどをして、掃除、お経読みなど夕方までいろいろな仕事がある。そして、夕方から夜学の中学に通う。帰ってきたら即就寝だ。お寺にはテレビもなければラジオもない。新聞もないし、携帯電話もない。もっとも携帯は最近は隠れて持っているものもいるようだが、原則禁止だ。インターネットなどあるわけがない。ただ学校に行けば、学校の友達との会話で世間で何が起きているか、少しは知ることができるが、テレビの話題などにはついていけない。

彼が入った年、その寺には中学生が20人以上いたが、徐々に減り3年経つと半分以下に減っていた。彼が生活をする部屋の同居人は40代と50代の人だった。そのため彼の言葉は、そうした人たちの影響を受けることになった。16歳の彼の言葉が非常に落ち着いたしっかりした日本語だったのは、そういう理由だったのだ。

3年間の修行はやはり厳しかった。また、その間、お坊さんの世界と言えども、どろどろとしたものを見ることになった。一番学んだことは何、と尋ねると、「人間関係でしょうか」と彼は答えた。繰り返すが彼は16歳である。夜間高校へ進む頃になると、彼は自分がしたいことが徐々におぼろげながら、わかり始めてきた。そこで意を決し、お坊さんの道をあきらめ、東京に戻って自分の夢を追求することにした。学校の先生、そしてお寺の人に相談し、了解を得て、11月一杯でお寺を辞め、東京の母親のもとにやってきたのだ。

そしてこの日、友人に誘われて、パーティーにやってきていた。「これから、いろいろな人に会って、いろんなことをやりたいんです。私は、いろいろな人に会って話をするのが好きなんです。ですから、自分のやりたいことができるようにがんばっていきます」 彼はしっかりとした口調で、言う。

彼は父親に会ったことがない、と言った。「お父さんに会ってみたいと思わない?」と訊いた。「いや、私は今の生活がとても気に入っていて、満足しているので、別に会いたいとは思いません」 なるほど。では、もしお父さんの方が君に会いたいと言ってきたら? 「ああ、それは喜んで会いますよ。会いたいなんて言っていただけるなら、私は光栄です。嬉しいです」 「言っていただけるなら・・・」というくだりに、僕はちょっと感動して胸が一杯になった。

彼の話は、かつてテレビでやっていたご対面番組『嗚呼! ばら色の珍生』を思わせた。もし彼が父親と会う日がいつか来るのであれば、その場に立ち会いたいと思った。母親はその父親の連絡先を持っていないらしいが、母の姉、つまり次郎君のおば、そして、祖母は持っているらしい。彼はまだ未成年の16歳だが、その精神は36歳のようにも思えた。大人なのだ。人間とは環境にものすごく影響を受ける動物だという。彼の16年の人生はまだ短いが、非常に密度が濃い。そして彼のような真っ当な人間が育ったということは、結果としてその劣悪な環境もよかったのかもしれない。ものは考え様だ。

僕が自分の16歳の頃を振り返ったら、彼ほど何も考えていなかったと思う。彼にはしっかり目的を持って、つき進んで行って有意義な人生を送ってほしいと思った。僕にできることなら応援しよう。

バックでは小さな音でビヨンセが流れていた。たくさん灯っていたろうそくがほとんど消えようとしていた。ちょうど家の主がやってきた。僕は彼に尋ねた。「ねえ、あの、さっきの『ハッピー・ニュー・イヤー』って曲、誰が歌っているの?」 「あれ、あれはアバだよ〜〜! 当たり前じゃない!」  そうだったか。そういえば彼のお国の大スターだった。CDプレイヤーの前に散らかっていたCDを見ると、そこには数枚のアバのほかにエイス・オブ・ベースのCDもあった。

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タイトル『大晦日に会った少年』

PEOPLE>A Boy I Met At New Year's Eve


ENT>POET>Kipling, Rudyard

Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA
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