NO.236
2003/04/26 (Sat)
Sydney Harbor at 5 AM
『シドニー・ハーバー午前5時。』

誕生日。

深夜、その薄暗い六本木のバーに、彼は一人でやってきた。DJや客と顔見知りらしく、挨拶をしながらカウンターに座った。

突然スティーヴィー・ワンダーの「ハッピー・バースデイ」が流れた。そのカウンターの友人たちが、サビの部分を大合唱した。その日は彼の誕生日だったのだ。そして、まもなくDJは彼のたってのリクエスト曲をかけた。アニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」だった。彼にとって、この「スイート・ラヴ」は特別の思い出がある曲だった。

この曲が流れると、彼はグラス片手に話し始めた。それはオーストラリア、シドニーのオーシャンフロントのアパートの話だった。


1988年6月シドニー。

その大きな一枚ガラスの窓の向こうには左手にシドニー・タワー、右手手前にオペラハウス、そしてその向こうにハーバーブリッジが見えた。それほど広くはないオーシャンフロントのアパート。シャワーひとつしかない4階の部屋。彼がオーストラリアにやってきて借りたところだ。

目指す大学に三浪していた彼を見かねた父親が言った。「これからは、英語だろう。三浪してても次に入れる保証なんてないんだから、外国にでも行って(英語でも)勉強してきたらどうだ」 父の友人がシドニーで日本食レストランを開いていたので、英語を覚えるため、社会勉強、修行のつもりで、彼はこの地にやってきた。

2週間で家賃110ドルというその部屋からは、かもめやアホウドリなど様々な海の鳥が飛ぶのが見えた。一枚ガラスの大きな窓を開けると、海の香りがしてきた。夜はライトアップされ、見事なハーバーライトが瞬いた。

仕事が終わったり、休みの日になにげなくつけていたMTVから、そのゆったりしたミディアム調の少しジャズ風の曲は突然流れてきた。何かしていて初めてこの曲が流れてきたとき、思わず引きつけられ、背中がぞくっとした。テレビの画面に映し出されていたのは女性シンガーのプロモーション・ビデオだった。だが、そのときは誰のなんという歌かを見逃してしまった。何日かして、また、同じ曲がかかったとき、今度はしっかりと曲名とアーティスト名を書きとめた。

それがアニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」だった。彼はすぐにレコード店に買いに走った。当時あまりお金がなかったので、その曲の入ったアルバム 『ラプチャー』 を、レコード盤より少しだけ安いカセットで買った。

そして、以来この曲はその部屋に幾度となく流れた。シドニー港のさわやかな朝も、太陽が輝く昼も、そして、星とネオンライトが光る夜も、「スイート・ラヴ」はその風景のサウンドトラックになった。

「しいて言えば、夜明けのイメージかなあ。一人で窓際に座ってそれは綺麗な夜景を見ながら、酒を飲んでいるときなんか、アニタの歌声にはやられました。特にこの『スイート・ラヴ』は聴いていると、どんどん曲の中に入ってっちゃうんですよ」と彼は言う。


1989年4月24日シドニー。

シドニーに来て10ヶ月。仕事も慣れ、職場の連中とも仲良くなった時期だ。4月24日の彼の誕生日を仲間たちが祝ってくれることになった。ちょうど、その頃、ちょっとばかり気になっていたゲイルというかわいい女の子がいた。店が終わり、仲間内で「ハッピーバースデイ」が歌われた。なんとゲイルがショートケーキを手作りしてくれた。みんなが酒を飲み、おいしいものを食べ、話ははずみ、パーティーは続いた。

ゲイルもずいぶんと酔っ払ってしまった。ゲイルは本来なら車を自分で運転して帰ることになっていた。だが彼は言った。「そんなに酔っ払っていたら、運転は危ないから、うちにおいでよ」  彼のアパートは、歩いてすぐのところだった。ゲイルは彼のアパートにやってきた。二人ともかなり酔っ払っていた。彼はいつものカセットをかけた。アニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」が、美しい夜景が広がる暗い部屋に鳴り響いた。

「心から愛してるわ。ベイビー、一緒にいればわかるはず。私の腕があなたを抱きしめるのよ。甘い、とろけるような恋に夢中。大声であなたを呼んでも恥ずかしくない。甘く、とろけるようなスイートな恋に夢中なの」

惹かれあう男と女のサウンドトラックとしては完璧だった。

彼はグリーンカード(永住権)が取れるまでの2年間は最低シドニーにいるつもりだった。ところが、その途中の89年暮れ、東京から連絡が入った。父親が癌で大きな手術をするから帰って来い、とのことだった。あと半年いれば、永住権というところまで来ていたが、彼は日本に帰った。

父親は癌になってから2年ほど存命した。


2003年4月24日東京六本木。

そんな話を聴いたDJが「スイート・ラヴ」を再びかけた。

「この曲を聴くと、本当にあのシドニーのアパートからの風景がよみがえりますねえ。あの夜中のハーバーライトが見える夜景やなんかが」と彼は振りかえる。

シドニー・タワー、オペラ・ハウス、シドニー・ハーバー・ブリッジ、帆を揺らすヨット、大きな軍艦・・・。彼の心は、そのとき「スイート・ラヴ」とともに夜明けのシドニー・ハーバー午前5時に飛んでいた。

Music: Between The Lines Of Time


Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA
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