NO.195
2003/03/22 (Sat)
Bring In 'Da Noise, Bring In 'Da Funk: Soul explosion!
ビート。

音楽はドラムのリズム、ビートから始まった。そして、太古からドラムが刻むビートは人々を高揚させてきた。ビートに酔いしれ、踊り、歌い、興奮し、ハッピーになった。そして400年余におよぶビートの歴史を2時間に凝縮したこのミュージカル『ノイズ&ファンク』は、恐るべきパワーと知性と肉体の可能性を見せつけた。これを作った男の名はセヴィアン・グローヴァー。

17世紀、アフリカからたくさんの奴隷がアメリカ大陸に連れてこられた。そのときの奴隷船の名前が、次々と連呼される。虐げられた黒人たちは、ドラムが生み出すビート、ビートが生み出す音楽に救いを求める。しかし1739年、サウス・カロライナ州で起こった黒人暴動をきっかけに、ドラムが禁じられた。唯一の娯楽を禁じられた黒人たちは、足を踏み鳴らし、手を叩き、ビートを、リズムを生み出すようになる。これがタップダンスの始まりだ。抑圧、そして、そこからの創造がタップを生む原動力となった。

叩けるものは、なんでも叩いた。フライパンをたくさん集めて、二人で叩けば立派なビートを刻めた。第一部の「パン・ハンドラー」のシーンは、まさにそんな彼らの真骨頂を見せる。

しかし、まだ南部には恐るべき人種差別が残っていた。黒人がリンチされ殺された。南部にはあまり仕事もなく、貧しかったので、人々はみな、景気のいい北部(シカゴ)に向かった。シカゴの工場で働く黒人たち。リズムにのって、仕事が続く。1920年代、景気のよくなった黒人たちは、人種差別はありながらも、「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれる独特の文化を生み出す。ダンス、歌、ジャズ・・・。ありとあらゆるエンタテインメントが生まれ、それを黒人たちも楽しむようになった。

黒人のタップに注目したハリウッドは、タップを映画の中にとりいれようとする。しかし、ハリウッドは、ビートのきいた強烈なタップを受け入れようとせず、笑顔と見栄のいいタップをやらせた。真のタップ・ダンサーにとって、それは『白人向けの骨抜きにされた』タップだった。白人向けに演じて大金持ちになった黒人をセヴィアンは、強烈に批判する。

このシーンは、主人公セヴィアンが本作でもっとも強調したい『黒人対白人』の構図だろう。僕は今まで、黒人のタップと白人のそれが、これほど違うとは知らなかった。それは、ストリートのタップと、ハリウッドのタップが著しく違うということだ。ここでは、付け加えて、白人寄りの黒人への批判も展開する。マイケル・ジャクソンまで槍玉にあがっているのには驚いた。セヴィアンは間違いなく、映画界のスパイク・リーと同様の地点に立っている。

このミュージカルの中で最大のハイライトが、セヴィアン・グローヴァーが尊敬する4人の過去の偉大なタップ・ダンサーに捧げるシーンだ。たった一人でステージ中央に立つセヴィアン。その前に3枚の鏡が置かれ、本物のセヴィアンと鏡に映る3人の彼の計4人が同時にタップをやっているかのように見える。

グリーン、チェイニー、バスター、スライドの4人のそれぞれの特徴を語りながら、彼は鏡の前でひたすらタップを踊る。その瞬間、その瞬間、過去の先達がセヴィアンにのり移ったかのようだ。このシーンを見るだけでも、本作を見る価値があると言ってもいい。言葉は要らない。

時代は流れ、それでも、ビートは続く。ヒップ・ホップが登場し、ストリートでのバケツ叩きがノイズをかもし出す。ノイズはファンク。ファンクはノイズ。ジャレッドとレイモンドのバケツ叩きは、それが単純であるだけに感動的だ。ドラムを禁じられても、そこにバケツがあれば、ビートは生まれる。ビートを作り出すのは、ドラムではない。人間そのものなのだ。そして、その人間の可能性は無限大だ。

最後、バケツ叩き2人と4人のタップダンサーが、よくストリートなどで見られるタップ・バトルを繰り広げる。セヴィンが踊り、ドーメシアが踊り、みな競いあって、我こそ相手を打ち負かそうとタップを踊る。

そして、いかなることがあろうともの後に、[There will always be](いつでも)と大きな文字がでて、画面が変わり[Da Beat](ビートは永遠にありつづける)と映しだされる。この[Da Beat]の文字が浮かびあがったとき、僕は胸が一杯になった。

17世紀にアフリカから奴隷として連れられてきた黒人たちが、一時はドラムを、ビートを禁じられたものの、体を使うことによってビートを生み出す方法を考え出し、そのビートは、今日まで脈々と受け継がれ、そして、これからもずっとあり続けるという事実を目の当たりにしたとき、400年以上もの間刻み続けられているビートのパワーに圧倒させられた。

ビートは人々を高揚させ、戦いを起こさせることにもなりえるだろう。しかし、その同じビートは人々をひとつにまとめ、戦いをやめさせる力にもなりうるだろう。まさに両刃の剣だ。ドラムが禁止された所以だ。

強烈な歴史観と主張。たかがタップ、されどタップ。肉体だけが生み出すことができる主張。言葉ではなく、体から放たれる喜び、怒り、悲しみ、魂の叫び。黒人の尊厳とプライドが、たった二本の足元から発信される。ブルーズ、ゴスペル、ジャズ、ソウル、そして、ダンス。すべてのブラック・カルチャーの要素と歴史をここまで貪欲にこれでもかこれでもかと凝縮したミュージカルを他に知らない。

もっとも、ニューヨークで字幕なしで見たら、恐らくここまで理解できなかっただろう。プログラムの解説と字幕によって、このショウへの理解が深まり、感動できたのだと思う。日本で見ることができて感謝だ。

タップがこれほど力強いものとは思わなかった。セヴィアン・グローヴァーがこれほど黒人意識の強い男ということも知らなかった。そして、僕はミュージカル形式のものを見てこれほど感動したことはなかった。

あらゆる出演者にビッグ・リスペクトを!

ソウルの爆発を体言した夜になった。こんなソウルの爆発はめったに味わえない。再演を望む。


(2003年2月27日から3月23日まで。赤坂ACTシアター。邦題、『ノイズ&ファンク』)



Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA
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