リック・ジェームス死去
数々のファンクヒットを放ってきたファンクマスター、リック・ジェームスが8月6日朝ロスアンジェルスの自宅で死去した。午前9時45分頃(日本時間7日午前1時45分頃)、アシスタントが死んでいるのを発見した。その直前に死亡したものと思われる。自然死と見られる。56歳。ジェームスは長い間糖尿病と心臓を患い、ペースメイカーをつけていた。
かつて、93年、暴力行為で訴えられ、96年8月まで刑務所に入っていたこともある。98年、復帰ステージで心臓発作を起こし、そのまま入院。その後リハビリに力をいれていた。
リック・ジェームスは1948年2月1日ニューヨーク・バッファロー生まれ。8人兄弟の3番目。本名ジェームス・アンブローズ・ジョンソン・ジュニア。母親が無類のジャズ好きだったことから、幼少の頃からジャズのライヴハウスに連れて行かれたり、自宅ではジャズのレコードに触れた。まもなくミュージシャンになることを夢見るようになり、音楽活動を開始。60年代後期には、ヴェトナム戦争に行くことを避けるためにカナダに放浪の旅に出て、現地で当時はまだ無名だったニール・ヤングらとともにマイナーバーズというグループでバンド活動をしていたこともある。
70年代に入り、ロスアンジェルスに来て、ソングライターとしてモータウン傘下の音楽出版社ジョベッタ・ミュージック入り。ここで作品などを書いていたが、78年、自らがレコーディングしたファンキーな作品で当時の妻のことを歌った「ユー&アイ」でアーティストとしてデビュー。これがいきなり大ヒットとなり、以後はファンク・アーティストとして快進撃をとげる。モータウンには彼のほかにファンク・アーティストはおらず、モータウン唯一のファンク・アーティストとして人気を博した。
パンク精神の持ち主で、ステージでマリファナを吸い、観客にも勧めたりしていた。ジェームスのライヴ・コンサートは、会場中マリファナの煙が立ち込めていることでも話題になった。
アーティストとしてだけでなく、ティーナ・マリー、メリー・ジェーン・ガールズなどのプロデュースもてがけてヒットさせた。外部プロジェクトとしても、エディー・マーフィーの「パーティー・オール・ザ・タイム」(85年9月)をヒットさせている。ジェームスは、スモーキー・ロビンソンとのデュエット「エボニー・アイズ」(83年)、あるいはテンプテーションズとのデュエット「スタンディング・オン・ザ・トップ」(82年4月)などのヒットもある。
彼の81年4月発売のアルバム『ストリート・ソングス』は、モータウン史上もっとも売れたファンクアルバムとなり、ジェームスの最高傑作と呼ばれる。ここからは、「ギヴ・イット・トゥ・ミー・ベイビー」、「スーパーフリーク」などが大ヒット。「スーパーフリーク」は90年、ラッパーのMCハマーが「ユー・キャント・タッチ・ディス」でサンプリングして使用し、再び注目された。
彼は娘タイ、息子たちリック・ジュニア、タズマンと、孫娘ジャスミンとカリスマらによって送られる。
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Between The Two Characters
パンク。
リック・ジェームスを一言で言えば、「パンク・ファンク」だ。そのスピリットからして、強烈なパンクである。セックス、ドラッグ&ファンクン・ロール。おまけにヴァイオレンスもつけよう。女とドラッグと音楽。それが人生のすべてだった男だ。ドラッグのやりすぎで、寿命を縮めたのかもしれない。ドアーズのジム・モリソンとも親交があり、ジミ・ヘンドリックス、スライ・ストーン、カーティス・メイフィールド、ジェームス・ブラウンなどの音楽に影響を受けた。48年生まれなので、ウッドストックなどの「サマー・オブ・69(1969年の夏)」は、21歳である。パンクも、ヒッピーもなんでもありの時代だ。
リック・ジェームスは本当に一度ライヴを見たかった。90年代初期に、ジェームスの来日話があり、スケジュールも発表された。しかし、ごたぶんにもれずドタキャン。幻となった。一度80年代初期に、友人がアメリカでそのライヴを見て、その時のことを話してくれた。80年代初期といえば、『ストリート・ソング』の後で、どこかのコロシアムで見たような話だった。会場全体が、マリファナの煙でものすごかったという。その話だけで興奮した。
そして、ジョージ・クリントンのPファンクのライヴ同様、一曲が延々と続く。あれは、きっとハイになっていると、演奏を止めるというマインドがなくなるのだろう。そして、同じことの繰り返しでもさらにハイになっていくのだと思う。それは、きっとスライの音楽なんかでもそういう麻薬感覚があふれているのに違いない。ラリって録音した曲をしらふで聞いてそのよさを感じるというのもすごい話である。1週間にコカインのために、1万ドルから1万5千ドル(当時のレートで200万円から300万円)近く浪費していたという。ところが、本人はそんなことはまったく意識していなかった。
80年代後期にはモータウンとの契約が切れ、ワーナーへ移籍しているが、それほどの大ヒットにはならなかった。しかし、MCハマーが「スーパーフリーク」を使ったことで、再び脚光を浴びる。
最初、ラジオで「ユー・キャント・タッチ・ディス」を聴いたときには、ジェームスは怒り心頭で弁護士に電話をして、怒鳴り散らしという。しかし、弁護士が印税使用料として入ってくる金額を言った瞬間、怒りは収まった、という。いかにも現金なジェームスらしい逸話だ。80年代のファンクは、リック・ジェームスがリードしていたと言っても過言ではない。それほど見事な活躍ぶりだった。
彼はかつて「オレはリック・ジェームスを演じている。ワルで、ドラッグ中毒で、パンクでっていう」と言った。確かに人々は、リック・ジェームスをそのイメージで知っている。だがドラッグ中毒から抜け出るために必死になってリハビリに励んでいた男はきっとただのジェームス・ジョンソン・ジュニアだったのだろう。そして、刑務所で落ちぶれていたいた男もジェームス・ジョンソンだった。彼はリック・ジェームスとジェームス・ジョンソンという二人のキャラクターの間に死んでいったのかもしれない。
やすらかに、ジェームス・ジョンソン・・・。
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リック・ジェームス死亡記事
http://www.msnbc.msn.com/id/5625044/
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/ap/obit_james
ENT>OBITUARY>James, Rick/2004.Aug 6