消費財。
しばらく前に著作権の話がでました。それと別件で、昨日、5.1チャンネルのいい音でサム・クックを聴いたという話がありました。このふたつの話と関連したお話をしてみたいと思います。
それは、いいオーディオ装置で音楽を聴くと、音楽を聴く姿勢というものが変わるのではないか、ということです。
実は昨年亡くなった叔父が立派なオーディオ装置をもっていて、それを3ヶ月ほど前に譲り受けるという幸運に恵まれました。マッキントッシュというメーカーのものです。以来、これまでに持っていたCDをけっこう聴きなおしたり、新しいCDなどもそのマッキントッシュで聴くようになったのですが、その音が実にすばらしい。そして、今まで何度も聴いた作品を改めてこれで聴くとさらに新しい発見などがあるのです。「あれ、こんな音あったっけ」とか「この音がとてもよく聴こえる」とか、音楽自体を聴くことがめちゃくちゃ楽しくなったのです。
今までは、普通のコンポや車の中などで聴いているときというのは、何かしながら聴くことが多かった。家では原稿を書きながら聴くとか、新譜をまとめて聴くときには、それこそ飛ばし飛ばし聴くとか。ゆっくりアルバムを聴くためだけにスピーカーの前に座るなどということは、まずありませんでした。このマッキントッシュのおかげで、アルバムを聴くことに集中したくなったのです。映画を見るように、アルバム1枚をじっくり聴きたい、そういう時間を作りたいと思うようになったのです。
クインシーの『ベスト』、マーヴィンの『ホワッツ・ゴーイング・オン』、ダニー・ハザウェイの『ライヴ』、スティーヴィーの『キー・オブ・ライフ』、ジョージ・ベンソンの『ブリージン』などなど。今まで忘れていたような楽器の音が、聴こえてきます。
ふと、一体これはどういうことなのだろうか、って考えるようになりました。かつては、買ったレコードはじっくりよく聴いていた。あんまりレコードはたくさん買えなかったので、数少ないレコードを何度も何度もていねいに聴いた。30年前と比べて、今はレコード、CDは非常に買いやすい状況になっています。30年前に2000円だったレコードが、今ではCDで2000円を切って入手できます。物価上昇から比べれば、格段の安さになっています。
そして、ステレオの前に座って、大きな30センチ四方のジャケットをじっくり眺めながら、あるいは、中のライナーノーツを読んだり、ミュージシャンクレジットを見ながら聴いたものです。座って20分も経てば、A面からB面にひっくり返す作業をしなければなりません。レコードには指紋や傷がつかないようにていねいに扱っていました。
今は、CDになって、まあ、指紋がついたところで拭けばいいし、仮に落としたとしても、まず傷がついたりすることはありません。レコードを扱うほどの真剣さを持って、CDを取り扱うことはありません。レコードは貴重品でした。しかし、今、CDはそれほどの貴重品ではありません。これはしばらく前から常々感じていたことですが、今、CDは、まさに消費財になってしまったのです。このことが音楽自体に最大の影響を与えていると考えるようになりました。
ヒット曲、しかもメガヒットが生まれ、それがものすごいスピードで次々と消費されていく。そこから長い時間を経て残っていくものがあるのだろうか、と思うこともしばしばです。では何が音楽を消費財にした張本人なのでしょう。
と考えてみると、思い当たる節があります。それは、79年のウォークマン発売と82年のCDの登場です。
ウォークマンが登場したときにはものすごいものがでてきたと思いました。一言で言えば、音楽が、ひとつのクローズドな空間から一挙に解放されたと感じました。つまりそれまでは音楽は、ステレオ装置の前にいなければ聴けませんでした。それが、ウォークマンの登場で、歩いているとき、公園で、星空の下で、どこでも、音楽を聴くことができるようになったのです。車に乗ってウォークマンで音楽を聴けば、カーステレオで聴く以上に、車の窓から見える風景は映画になりました。音楽を聴く場所がもはや限定されなくなったのです。これは革命です。音楽を狭いリスニング・ルームから解放したのです。
そして、CDが登場します。CDがでてきたときは、音がレコードほどじゃない、とか、でも、便利だとか、いろいろな意見がでてきました。僕も音というよりも、便利さ、使いやすさが気に入りました。しかし、CDというメディア自体がその後20年間に音楽界に与える影響の大きさなど知る由もありませんでした。
今、過去20年を振り返ると、CDは劇的にミュージック・ライフに変化を与えました。まず、便利さ、手軽さ。そして、コピーのしやすさ。収録時間も長くなりました。レコードは20分程度でひっくりかえさなければなりませんでしたが、CDだと70分以上、そのままプレイできます。
1曲目を聴いて、いまひとつだったら、リモコンで2曲目に飛ばせます。アーティストが意図した曲順ではない曲順に並べ替えることもできます。好きな曲ばかりを何度でもリピートできます。以前はアルバムから好きな曲ばかりを繰り返しかけようとしたら、ターンテーブルにはりついていなければなりませんでした。アルバムは、片面20分ですから、じっくり20分聴こうと思えば聴けました。しかし、いまどき60分近く、スピーカーの前に座って音楽を聴くなんてことができるでしょうか。
CDというメディアが誕生して、音楽がどうなったか。結局、みんなフルでアルバムをじっくり聴き込むなんてことをしなくなったのです。いや、私はちゃんと70分じっくり聴いている、という人がいらっしゃったら、ごめんなさい。あなたは、すばらしい尊敬すべき音楽リスナーです。一般的には、そして、かなり大多数の人は、音楽を聴くためだけに聴くということはしなくなりました。言ってみれば、音楽があらゆるところで、あらゆる意味で、BGM(バックグラウンド・ミュージック)化しているわけです。
CDの誕生で音楽が手軽になり、ウォークマンで音楽がたくさん消費されるようになりました。もちろん、それだけ音楽が一部の人だけでなく、幅広く多くの人に到達するようになったという功もあります。音楽がどこでも、いつでも、まあ、そこそこの安価で手に入る。そして、どこでも音楽が聴ける。部屋でも、電車の中でも。街中でも。
これらのことを総称して、一言で言えば、音楽が過去20年で「コンビニ化」したと言えます。そして、コンビニ化した音楽は圧倒的に消費されています。とにかく、音楽が便利で、お手軽になりました。そして、ある意味で音楽がなくてはならなくなった人たちも増えました。それも、功の部分です。
しかしコンビニのお弁当ばかりでいいのか、という問いが必ずでてきます。ちゃんとした料理人が作った食事、あるいは、最近のはやりの言葉で言えば、しっかりした食材を使ったスローフードのほうが体にいいのではないか。今の音楽の消費の仕方は、まさにコンビニ弁当が毎日入荷し、それを消費しているようなものではないでしょうか。
そうして、消費される音楽ばかりがでてくると、今度はその音楽を作る側にも、そうした意識が芽生えてくるかもしれません。実際、音楽を作る力、ミュージシャンの音楽力が落ちてくるわけです。それは消費者がお手軽なコンビニ弁当を好むようになったために、作る側もお手軽な安易な音楽を作るようになるわけです。ミュージシャン、アーティストはリスナーが育てる、と僕は思うわけですが、そういう構図がもはや成り立ちにくくなっているわけですね。
CDが売れなくなって音楽業界は危機感を強めています。もちろん、CDのコピーや無法ダウンロードによって売上が下がっていることも事実でしょう。かなり影響があることは否定できません。しかし、もっとも根本的なことは、音楽自体の力が弱まっているということなのです。音楽も、ミュージシャンの力も弱まっているのです。それは、今挙げたような要素が複合的に絡みあって、そういう悲劇的な事態になってしまったのです。
とは言っても、技術の革新を妨げる必要などありません。CDが生まれなければよかったのか、そんなことはありません。何が必要かといえば、音楽に対峙する確固たる姿勢を持つということです。そして、音楽を作る側は、決して自分の音楽をコンビニ化させないことです。聴く側も、音楽をコンビニを使うように聴かないことです。常に音楽家と聴く側の間に適度な緊張感があれば、その音楽には力が生まれてきます。
きしくもオーディオ雑誌の編集の方が言いました。「今の人は生まれた時からCDやカセットをヘッドフォン・ステレオや小さなコンポなどで聴いてきたから、いい音で音楽を聴くということ自体を知らないんですよ。昔はそれこそ、ロック喫茶、ジャズ喫茶なんかがあって、そういうところでは少なくともちょっとはいい音に触れることができた。でも、今はそうしたことができない。知らないから興味がわかない。よって音にこだわるリスナーは少なくなったんですよ」 なるほど。
何がラジオスターを殺したか。79年、バグルスは「ヴィデオ・キルド・ザ・レイディオ・スター」(ヴィデオがラジオスターを殺した)と歌いました。CDやウォークマン(ヘッドフォンステレオ)も、ラジオスターを殺したのでしょうか。CDやウォークマンが育てた部分も必ずあるんでしょうが。どうなんでしょう。とりあえず、仮説という感じで書いてみました。