バリー・ホワイト死去
低音の魅力で人気を集めたソウル・シンガー、バリー・ホワイトが金曜(2003年7月4日)午前9時半頃(日本時間・5日午前1時半頃)、ロスアンジェルスのシーダース・サイナイ病院で死去した。58歳だった。
バリー・ホワイトは、昨年(2002年)9月、以前から患っていた高血圧からくる腎臓疾患で入院、人工透析を受けていた。また5月にカテーテル注入手術のときに脳梗塞を起こし、右半身に麻痺と言語障害も発生していた。
https://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030520.html
2ヶ月ほどまえにバリーを病院に見舞ったテレビ番組『ソウル・トレイン』の創始者ドン・コーネリアスによると、「彼にはたくさんのチューブがつけられ、まったく身動きがとれていなかった。彼のあの強靭な精神力ゆえに、今日まで生き延びてきたのだろう。彼に代わる存在の者はいない。彼の音楽は永遠に生き続ける」とコメント。
さらに、「彼にとって愛は非常に重要な要素だった。彼は、女性のために愛を降り注いだ。聞き手のあなたの彼女・彼氏のためや、そのベッドルームのためだけに曲を歌っていたわけではない。彼は、自分自身のベッドルームのために歌っていたのだ」と語った。
バリー・ホワイトは、1944年9月12日テキサス州ガルヴェストン生まれ。幼少の頃にロスアンジェルスへ移り住み、母親に育てられた。子供の頃から教会に行き、ゴスペルに親しみ、12歳の頃にはすでにプロのR&Bシンガー、ジェシー・ベルヴィンのヒット「グッドナイト・マイ・ラヴ」(56年12月のヒット)でピアノを弾いていたという。十代半ばでヴォーカル・グループ、アップフロンツを結成、1960年にラムトーンというインディレーベルからデビュー。
さらに、65年、ソロシンガー、バリー・リーという名でもシングルを録音している。その後66年から67年にかけては、ムスタング/ブロンコというインディレーベルで、A&Rの仕事にも携わった。69年に、オーディションに受けに来た女性シンガーのグループをプロデュースすることを決意、このグループは73年、ラヴ・アンリミテッドとして「ウォーキング・イン・ザ・レイン・ウィズ・ザ・ワン・アイ・ラヴ(恋の雨音)」大ヒットを放ち、グループも、またそのプロデューサーであるバリーにも注目が集まった。
73年、バリー・ホワイトとして「アイム・ゴナ・ラヴ・ユー・ジャスト・ア・リトル・モア・ベイビー」がソウルで1位、ポップで3位、ミリオンセラーになり、いきなり大ブレイク。その後も数多くのヒットとともに、プロデューサーとして、シンガーとして大人気を獲得した。
特にヒット曲は、歯切れのいいリズム、華麗なオーケストラとともに、ディスコでも人気を集めた。また、彼のその低音の魅力が女性ファンだけでなく、幅広く指示を集めた。
87年、A&Mに移籍。89年の「ステイイング・パワー」でグラミー賞を2部門受賞。90年にはクインシー・ジョーンズのアルバムで、「シークレット・ガーデン」を歌い、大ヒットさせた。
日本では88年から東京のFM局Jウェイヴで深夜の番組のDJを勤めたこともある。また彼がプロデュースしたラヴ・アンリミテッド・オーケストラの「ラヴズ・シーム(愛のテーマ)」は、JALのCMに使われ大ヒットした。
プライヴェートでは、60年代に十代の頃からの友達であったメアリーという女性と結婚、4人の子供をもうけるが、69年離婚。その後、ラヴ・アンリミテッドのメンバーのひとり、ゴールディーン・ジェームスと74年に再婚。4人の子供をもうけるものの、88年離婚。
近年では、テレビ・シリーズ『アリー・マイ・ラヴ』で、バリーの曲がたびたび使用され、人気が再燃、バリー本人もそのドラマにゲストで出演したりしていた。
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First Class Sweets: That’s His Velvet Voice
大甘。
僕が一番最初に買った輸入盤のシングルの1枚がバリー・ホワイトの73年のヒット「アイム・ゴナ・ラヴ・ユー・ジャスト・ア・リトル・モア・ベイビー」だった。これは彼の実質的な初ヒットなので、約30年にわたって、彼の作品をほぼリアルタイムで聞いてきたことになる。
そんな彼がコンサートで来日したのは74年9月のことである。僕は中野のサンプラザで見た。非常によく覚えているのが、何かのバラードで、あのバリー本人がステージから客席に降りてきたことだ。そして、客席の通路を長いマイクコードをひっぱり歌いながら、歩いたのである。歌手がステージを降りて客席を歩くなどというものを見たのは、僕にとってはそのバリー・ホワイトのコンサートが初めてだった。
そんな彼と再会するのが、13年後のこと。新作についてインタヴューするために、彼の自宅を訪問する機会を得た。1987年の夏のことだった。ロスアンジェルス郊外のシャーマンオークスにある邸宅だった。そこにはスタジオもあった。ちょうど、A&Mからの移籍第一弾アルバム『ショー・ユー・ライト』が出る直前のことだった。
その邸宅は、山の中腹にあり、母屋のほうから下がっていくと、プールがあるという豪華なものだった。バリーが様々な写真の飾られている家の中や、その下のほうのエリアを自らツアーしてくれたことを思い出す。しかし、1994年1月のロスアンジェルス大地震で、この豪邸が破壊され、その後、彼はラスヴェガスに住むようになっていた。
彼の声は、レコードの通り、低く、太い。そして、比較的ゆっくり話す。体が大きいだけに、実に存在感がある。ビッグダディーというにふさわしい貫禄があった。そのときの話の中心は、まもなくリリースされる新作アルバムについてだったが、その意気込み、自信ぶりは、半端なものではなかった。彼もまた、のってくると話がまったく止まらないタイプの人物であった。
バリーがこの有名な低音の声になったのは、14歳のときだった、という。ある朝起きたら、自分の声がこんなだみ声になっているので、恐怖におののいた、という。体は震え、母親に話かけたが、母親も最初は何が起こったか、わからなかった。だが、すぐに彼女は自分の息子が声変わりしたことを察知する。そして、母は笑顔になり、その目から涙がこぼれ落ちた。「私の息子が、大人の男になったのね」とバリーに語りかけた。
1960年、彼が16歳のとき、ラジオから流れてきたある曲に心を奪われた。それはエルヴィス・プレスリーの「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」だった。そして、これを機に彼は歌手か音楽の道へ進もうと決心する。しかし、十代の頃は、本当に貧乏だった。新しい靴も買えずに、穴があいた靴を何日も履いていたという。
あるとき、ハリウッドにあるキャピトルレコードの丸いビルの前に立ち、彼は決意した、という。そのビルは、ロスの音楽業界のある種、象徴的な建物だった。自分は絶対に音楽業界で成功し、このビルの中に入るんだ、と。
そして、彼のこの声は世界で唯一の魅力的な声となった。ラヴソングに欠かせない声、ベッドルームになくてはならない声、彼女を口説くときの必要条件。そして、ムードを演出したいと思うプロデューサーは、躊躇することなく、バリーに電話した。クインシー・ジョーンズがそうだった。
彼の作品の最大の特徴は、すべてラヴソングという点。男性から女性へのラヴソングである。しばしば「ベッドタイム・ミュージック」「ゲット・イット・オン・ミュージック(やるときの音楽)」などと呼ばれ、男女のシーンに欠かせないもの。
彼の声を評して、「もし、チョコレート・ファッジ・ケーキが歌うことができるなら、それがバリー・ホワイトの声だろう」と言われたこともある。それだけ、スイートでメローな声ということだ。そう、バリーのヴェルヴェット・ヴォイスは、ソウル界の超一級スイーツなのだ。そして、おいしいスイーツに女性は目がない。
ご冥福をお祈りしたい。
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