★Norman Whitfield (Part 2) : The Legendary Producer Of Motown
(昨日からの続き)
【ノーマン・ホイットフィールド、伝説のモータウン・プロデューサー逝く】
弔辞。
モータウンの伝説のプロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドが9月16日に死去し、その報道が世界を駆け巡って3日。ノーマンはしばらく前からシーダース・サイナイ病院に入院していたが、ここのところは危篤状態だったという。昨日のブログ以降、ノーマンへのコメントが続々とでてきている。いくつかをまとめてみよう。
多くのヒットをノーマン・プロデュースのもとで出したテンプテーションズのオーティス・ウィリアムス。「ノーマンはスタジオでの総監督みたいなものだった。彼は自分の思った通りに音作りをしたがった。彼を知ってる人物なら誰もが、彼が頑固で、自分が信じていることを絶対に譲らないことを知っている。だが、ノーマンほどファンキーなグルーヴを作り出せる人物はほかにいない。彼はスタジオのマスター(巨匠)だった」
ノーマンがプロデュースし、「アイ・ノウ・アイム・ルージング・ユー」などが大ヒットしたレア・アースのギル・ブリッジス。「最初のレコーディング・セッションのことを覚えている。彼は、スタジオに入ってくるなり、君主のように振舞った。そして、ミュージシャンたちに1時間ノンストップでジャムをやらせ、録音した。彼はいつも首にタオルを巻き、汗びっしょりでスタジオを動いていて、ミュージシャンにソロ・パートの入る場所を指示する。(我々が帰った後)彼はその長いマスターテープを、3分半くらいに短く編集し、そしてできあがったのが『アイ・ノウ・アイム・ルージング・ユー』だった」
ノーマンの長年の友人、クレイ・マクマレイ。「彼はとても複雑な人物だった。アーティストを泣かせるのもお手の物。それでも彼にとっては、(そのアーティストに対して)リスペクトの気持ちはあったんだ。彼はとても立派で優秀なプロデューサーだ。(僕などは)一緒にそこで話をし、笑ったりすることもできるんだが、そうできた人は少なかっただろうな。そういう部分を知っている人は少ないはずだ」
映画『カー・ウォッシュ』のプロデューサー、ゲイリー・ストロンバーグ。「ノーマンは当時、誰もやらなかったような方法で、トラックを作っていた。彼には(音楽の)すばらしいヴィジョンがあった。彼は彼だけの世界に住んでいた。彼のやり方でやるか、さもなければ、やらないか、そのどっちかだった。彼にやりたいようにやらせておけば、素晴らしいものができてきた」
スモーキー・ロビンソン。「ノーマンはもっとも優れたソングライターであり、レコード・プロデューサーの一人だった。彼は彼が作った音楽を通して、永遠に生き続ける」
ノーマンと一緒に曲を書いたこともあるジャニー・ブラッドフォードは、クレイ・マクマレイらとともに最期を看取ったひとり。「この日は本当に悲しい日です」とコメント。
マーヴィン・ゲイの自伝『ディヴァイデッド・ソウル』を書いたデイヴィッド・リッツ。「ノーマンは、かつて、自分はスライ(・ストーン)をなんとか越えることだ、と言っていた。彼のサウンドは新しく、そのグルーヴは素晴らしい。スライはサイケデリックをつかんだ。だが、リズム、ホーンセクションなど、ノーマンの仕事振りは、スライに匹敵すると思う」
■「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」エピソード
ノーマンとテンプスの確執は有名だが、そのひとつのエピソードが、テレビ映画『テンプテーションズ物語』の中で語られる。ノーマンが書いた「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」をテンプスが録音するときのことだ。リードを歌うデニスがその曲の歌詞にかみついた。「それは9月3日のことだった。俺の父親が死んだ日だ。パパは、流れ者だった…」 デニスがノーマンにかみつく。「こんな曲は歌えん。日にちを変えてくれ」 「変えない、これで行く」「9月3日は俺の父が死んだ日なんだ、冗談じゃない」 「何? そんなのは、偶然だよ。俺は一行たりとも変えないよ」とノーマン。結局、ここはデニスが折れてこの曲は録音され、そして、大ヒットになっていく。これだけの強烈な個性があっただけに、衝突も多かった。だが、ヒットも、傑作も出た。
「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」は、1972年度のグラミー賞R&B部門で3部門を獲得する。「ベストR&Bソング」「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス・デュオ・オア・グループ」と、もうひとつが、「ベストR&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス」だ。「ソング」では、バレット・ストロングとともに、ノーマンも受賞。しかし、おもしろいのが、「ベストR&Bインスト」部門だ。これを受賞したのが、テンプテーションズ全員と、なんとプロデューサーのノーマンではなく、アレンジャーのポール・ライザーだったのである。もちろん、テンプス本人たちはトラック(インストゥルメンタル)の制作には一切タッチしていない。あれだけ我を通して作り上げた楽曲のトラック部分までがグラミーを獲得しながらも、実質それを作ったノーマンはグラミーをその部門では取れなかったというのだから、皮肉といえば皮肉だ。
ノーマンはその4年後、1976年度グラミー賞で、『カー・ウォッシュ』が「アルバム・フォー・オリジナル・スコア」部門を獲得する。
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■ ノーマンの生年について
ノーマンの生年だが、死去の第一報がでたとき(9月17日午後3時すぎ=日本時間)は、1943年生まれ、というのがほとんどだった。その中で、唯一フリー・プレスのライター、ブライアン・マッカラムが67歳と書いていた。実は1943年生まれとする記事の中でも、「19歳でモータウンに入り…」という記述が多数あったが、これは、おそらくバレット・ストロングのヒット「マネー」を意味する。ここでバックコーラスをつけている。彼はそのモータウンの前に、セルマ(テルマ)・レコードというところで、すでにマイナー作品ながらレコード・プロデュースをしている。この「マネー」は、1960年のヒットだ。となると、1943年生まれでは計算があわない。逆に1941年生まれだと、19歳で1960年、モータウンの「マネー」とどんぴしゃになる。そこで、本ブログでは、1941年生まれを取り、一応多数を占めていた1943年生まれも、「説」としてある、とした。
ところが死去の第一報から一日あけると、前日まで1943年生まれとしていたウィッキペディアまでが、なぜかこんどは1940年生まれと書き直していたのだ。一方、LAタイムスが、ノーマンの生年を「選挙登録している生年」として1941年と書いた。おそらく、1941年が正しいのだろう。LAタイムス、USAトゥデイ、APは67歳(1941年生まれ)、ニューヨーク・タイムスはAP通信の記事を使って67歳、ただし、ロイターだけは65歳(1943年生まれ)をとっている。また生年月日は、なかなかでてこなかったが、インターナショナル・ムーヴィー・データベースに1941年5月12日と出ていた。ウィキの1940年説は、たぶん違うのではないかと思う。
ホイットフィールドは、4人の息子と1人の娘によって送られる。
■昨日の記事
September 18, 2008
Norman Whitfield Dies At 67
【モータウン・サウンドの立役者、ノーマン・ホイットフィールド死去】
http://blog.soulsearchin.com/archives/002675.html
■海外での記事
http://www.freep.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20080918/ENT04/809180433
http://www.azcentral.com/arizonarepublic/local/articles/2008/09/18/20080918death0918whitfield.html
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ENT>OBITUARY>Whitfield, Norman (May 12, 1941 – September 16, 2008, 67)
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