★Jerry Wexler (Part 2): “More Bass” Or What On Tombstone
【ジェリー・ウェクスラーの業績】
墓石。
レコード・プロデューサーであり、レコード・エグゼクティヴでもあったジェリー・ウェクスラーが過去半世紀以上にわたって成し遂げてきたことをまとめてみたい。なお、ジェリーはR&B、ブラック・ミュージックの世界で多大な功績を残した人物だが、彼自身はユダヤ系の白人である。
1)「レイス・ミュージック」の呼び名を「リズム・アンド・ブルーズ」にした。
これだけで、彼の音楽業界での評価は十分だ。
2)アレサ・フランクリンをコロンビアから引き抜き、アメリカ1の女性R&Bシンガーに育てた。
これだけでも、プロデューサーとして十分だ。
3)レイ・チャールズ、ソロモン・バーク、コースターズ、多くの黒人アーティストのヒット曲を作った。
レイ・チャールズとジェリーとのやりとりは、レイの自伝映画『レイ』の中でも、少し出てくる。
4)ブラック・アーティストを南部の連れて行き、南部のスタジオで南部のミュージシャンで録音した。
南部のミュージシャンたちは扱いにくかったが、それでもジェリーは彼らのサウンドがベストだと信じて、多くのレコーディングを南部で行った。アラバマ州のマスル・ショールズ、メンフィスのスタックス・スタジオなどをじつにうまく使った。イギリスの白人シンガー、ダスティ・スプリングフィールドをメンフィスに連れてきて、ソウルフルなサウンドでアルバムを作ったりもした。
5)ミュージシャンに黒人、白人の差別をしなかった。
そのマスル・ショールズなどでのミュージシャンは、白人だったが、その泥臭いサウンドは実にソウルフルであり、音楽を作るうえで白人、黒人を分け隔てしなかった。また、彼自身当初は黒人ミュージシャン、シンガーを多くてがけてきたが、1970年代になってからは、多くの白人アーティストもてがけるようになった。ジェリーは南部のミュージシャンが作り出すファンキーなサウンドが好きだった。特にベースの音が前面にでている音が好みだった。彼が作った作品はいずれもベースがいきいきとしている。
6)優れた耳を持ったクリエイティヴなプロデューサーでもあったが、当時に音楽ビジネスの仕組みを熟知したビジネスマンでもあった。
何が流行るか、何が支持されるかを敏感に知っていたが、同時にレコードのプロモーション、マーケティングについても、熟知していた。1950年代には自社作品をプレイしてもらうために、DJに賄賂を贈ったこともあった。また、彼がアトランティック入り際、株式の一部をもらうことを条件にして、アーメット・アーティガンを驚かせたという。結局、アーメットが折れ、一部の株を持った。
7)アトランティック・レコードの傘下にいくつものサブ・レーベルを作ったこと。アトコ、コティリオン、ローリング・ストーンなどなど。
これは1960年代にラジオのDJにプロモーションに行くと、同じレーベルのシングルばかりを持っていくと、1曲はかけてもらえても、同レーベルの別のアーティストのものは「またか」といってかけてもらえなかったため、デザインと名前の違うレーベルを作って、一見別物のように見せた。同じくモータウンも、いくつものサブ・レーベル(傘下のレーベル)を作った。同様の理由による。
8)人生最大の過ち。ジェリーは、1967年、成功を収めていたアトランティック・レコードの株式をワーナー・セヴンシーズ社にわずか1750万ドルで売却してしまう。これは、オウナーであるアーメットとともに、後々大きな後悔として語り継がれる。ただし、2人とも株を売り、オウナーの座からは離れたが、運営には携わった。
9)アーティガンは、ポップで売れるものへ傾注していくが、ジェリーはより南部のピュアな音楽を求めるようになる。そうしたものは多くの場合、あまり売れずに、マニア向けになっていき、二人の間に微妙な溝が生まれる。その結果、1975年にはジェリーはアトランティックを去ることになる。
+++++
2000年、彼に焦点を当てたドキュメンタリーが制作された。そのタイトルは、「イマキュレート・ファンク(純粋なファンク)」。ウェクスラーがしばしば自らのアトランティック・サウンドを評するときに使う言葉だった。
1993年、彼は作家デイヴィッド・リッツとともに、自伝『リズム・アンド・ブルーズRhythm and the Blues : A Life In American Music』を書き、発表した。
ジェリーは3回結婚している。葬儀は3番目の妻と、最初の妻との間に生まれた子供たちによって行われる。最初の結婚で生まれた娘アニタは1989年、エイズで死去している。
ジェリーはドキュメンタリーを作ったトム・サーマン監督に「墓石になんと書いて欲しいか」と尋ねられ、こう答えたという。More Bass (もっとベースをだせ)
しかし、葬儀を取り仕切る息子のポール・ウェクスラーによると、葬儀後の墓石にはこう書かれる予定だという。He Changed The World。
(訂正)昨日(2008年8月16日)付け、本欄でご紹介したジェリー・ウェクスラー自身が選んだベスト20のリストの順位は、年代順でした。必ずしも、好きな順のベスト10ではありませんでした。訂正します。
ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 – August 15, 2008, 91)
墓石。
レコード・プロデューサーであり、レコード・エグゼクティヴでもあったジェリー・ウェクスラーが過去半世紀以上にわたって成し遂げてきたことをまとめてみたい。なお、ジェリーはR&B、ブラック・ミュージックの世界で多大な功績を残した人物だが、彼自身はユダヤ系の白人である。
1)「レイス・ミュージック」の呼び名を「リズム・アンド・ブルーズ」にした。
これだけで、彼の音楽業界での評価は十分だ。
2)アレサ・フランクリンをコロンビアから引き抜き、アメリカ1の女性R&Bシンガーに育てた。
これだけでも、プロデューサーとして十分だ。
3)レイ・チャールズ、ソロモン・バーク、コースターズ、多くの黒人アーティストのヒット曲を作った。
レイ・チャールズとジェリーとのやりとりは、レイの自伝映画『レイ』の中でも、少し出てくる。
4)ブラック・アーティストを南部の連れて行き、南部のスタジオで南部のミュージシャンで録音した。
南部のミュージシャンたちは扱いにくかったが、それでもジェリーは彼らのサウンドがベストだと信じて、多くのレコーディングを南部で行った。アラバマ州のマスル・ショールズ、メンフィスのスタックス・スタジオなどをじつにうまく使った。イギリスの白人シンガー、ダスティ・スプリングフィールドをメンフィスに連れてきて、ソウルフルなサウンドでアルバムを作ったりもした。
5)ミュージシャンに黒人、白人の差別をしなかった。
そのマスル・ショールズなどでのミュージシャンは、白人だったが、その泥臭いサウンドは実にソウルフルであり、音楽を作るうえで白人、黒人を分け隔てしなかった。また、彼自身当初は黒人ミュージシャン、シンガーを多くてがけてきたが、1970年代になってからは、多くの白人アーティストもてがけるようになった。ジェリーは南部のミュージシャンが作り出すファンキーなサウンドが好きだった。特にベースの音が前面にでている音が好みだった。彼が作った作品はいずれもベースがいきいきとしている。
6)優れた耳を持ったクリエイティヴなプロデューサーでもあったが、当時に音楽ビジネスの仕組みを熟知したビジネスマンでもあった。
何が流行るか、何が支持されるかを敏感に知っていたが、同時にレコードのプロモーション、マーケティングについても、熟知していた。1950年代には自社作品をプレイしてもらうために、DJに賄賂を贈ったこともあった。また、彼がアトランティック入り際、株式の一部をもらうことを条件にして、アーメット・アーティガンを驚かせたという。結局、アーメットが折れ、一部の株を持った。
7)アトランティック・レコードの傘下にいくつものサブ・レーベルを作ったこと。アトコ、コティリオン、ローリング・ストーンなどなど。
これは1960年代にラジオのDJにプロモーションに行くと、同じレーベルのシングルばかりを持っていくと、1曲はかけてもらえても、同レーベルの別のアーティストのものは「またか」といってかけてもらえなかったため、デザインと名前の違うレーベルを作って、一見別物のように見せた。同じくモータウンも、いくつものサブ・レーベル(傘下のレーベル)を作った。同様の理由による。
8)人生最大の過ち。ジェリーは、1967年、成功を収めていたアトランティック・レコードの株式をワーナー・セヴンシーズ社にわずか1750万ドルで売却してしまう。これは、オウナーであるアーメットとともに、後々大きな後悔として語り継がれる。ただし、2人とも株を売り、オウナーの座からは離れたが、運営には携わった。
9)アーティガンは、ポップで売れるものへ傾注していくが、ジェリーはより南部のピュアな音楽を求めるようになる。そうしたものは多くの場合、あまり売れずに、マニア向けになっていき、二人の間に微妙な溝が生まれる。その結果、1975年にはジェリーはアトランティックを去ることになる。
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2000年、彼に焦点を当てたドキュメンタリーが制作された。そのタイトルは、「イマキュレート・ファンク(純粋なファンク)」。ウェクスラーがしばしば自らのアトランティック・サウンドを評するときに使う言葉だった。
1993年、彼は作家デイヴィッド・リッツとともに、自伝『リズム・アンド・ブルーズRhythm and the Blues : A Life In American Music』を書き、発表した。
ジェリーは3回結婚している。葬儀は3番目の妻と、最初の妻との間に生まれた子供たちによって行われる。最初の結婚で生まれた娘アニタは1989年、エイズで死去している。
ジェリーはドキュメンタリーを作ったトム・サーマン監督に「墓石になんと書いて欲しいか」と尋ねられ、こう答えたという。More Bass (もっとベースをだせ)
しかし、葬儀を取り仕切る息子のポール・ウェクスラーによると、葬儀後の墓石にはこう書かれる予定だという。He Changed The World。
(訂正)昨日(2008年8月16日)付け、本欄でご紹介したジェリー・ウェクスラー自身が選んだベスト20のリストの順位は、年代順でした。必ずしも、好きな順のベスト10ではありませんでした。訂正します。
ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 – August 15, 2008, 91)