△“Black Moses” Isaac Hayes Dies At 65
【ソウル・レジェンド、アイザック・へイズ死去】
訃報。
メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)午後1時過ぎ(現地時間)、メンフィスの自宅地下のトレーニング・マシンのところで倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、脳梗塞で倒れていた。
ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。母親がアイザックが18ヶ月の時に死去、父が失踪したために姉とともに祖父母に育てられた。生活は貧しく、高校を中退。幼少のころから教会でゴスペルを歌い音楽に親しんできたが、ピアノなどを独学でマスター。その頃のアイドルは、ナット・キング・コールだった。1960年代初期からメンフィス近辺で音楽活動を始め、1963年までにはメンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードのスタッフ・ソングライターとなる。ここで、パートナーとなるデイヴィッド・ポーターと出会い、彼とのコンビで多くの作品を生み出す。大ヒットとなった作品には、サム&デイヴの「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミング」「ホエン・サムシングス・ロング・ウィズ・マイ・ベイビー(僕のベイビーに何か)」など多くあり、スタックスの重要なソングライターとなり、2人の作品は200曲近くになる。
1967年、ジャジーでアダルトなムードあふれるアルバム『プレゼンティング・アイザック・ヘイズ』でアーティスト・デビュー。これは売れなかったが、1969年リリースの『ホット・バタード・ソウル』が爆発的に売れ、いっきに注目のシンガー・ソングライターとなった。これは、リッチなオーケストラ・サウンドとヘイズの低音の魅力が出た作品でそのセクシーな歌声ともナレーションともとれるパフォーマンスが、唯一無比で一世を風靡した。ここには当時のアナログで4曲しか入っていなかったが、いずれもが長尺の作品で、そうした作りも当時としては斬新だった。
その後、2枚のアルバムを出した1971年、いわゆるブラック・ムーヴィーとして注目を集める映画『シャフト』の音楽を担当。ここから「シャフトのテーマ」が全米ナンバーワンになる大ヒットを記録。アイザック・ヘイズは押しも押されぬ大スターになった。しかも、この曲はグラミー賞だけでなく、オスカーも獲得。
1972年、スタックスが社運をかけて行った大イヴェント『ワッツタックス』に登場。その派手さから、彼は「ブラック・モーゼ」の異名を取るようになる。
さらに、スタックスが1975年に倒産後は自身のレーベル、ホット・バタード・ソウルを設立、コンスタントにアルバムを出すが、同レーベルも行き詰まる。
アイザック・ヘイズ自身はアーティストとして、また映画俳優として、少しずつ活動の幅を広げていく。テレビ映画『ロックフォード・ファイル(ロックフォードの事件メモ)』『マイアミ・ヴァイス』などにゲスト出演。映画俳優としては、1981年の『エスケープ・フロム・ニューヨーク』での演技が高く評価された。シンガーとしては、1977年、ポリドールに移籍、ディスコ調のヒットをいくつか出した。
ヘイズはその後、1990年代に入ってニューヨークのラジオ(KISS=FM)でDJを担当したり、1997年からは人気テレビシリーズ『サウス・パーク』でシェフ役の声を担当するなど活躍していた。しかし、彼がサイエントロジーの宗教を信仰し、そのことを扱ったエピソードがあり、それに不満を表明し、2006年になって『サウス・パーク』を降板した。
音楽的には、多くのヒップホップ・アーティストや若いシンガーからサンプリングされるようになり、改めて注目を集めるようになった。中でも、アリシア・キーズはアイザック・ヘイズの影響を語っている。彼女によれば、自分の「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」が6分以上になるのも、アイザックの作品が平気で10分を超える長尺のものが多々あったからだ、と述べる。つまりシングル用に3分程度の曲が一般的だった頃、アイザック・ヘイズはそうした常識に囚われず長い曲を録音していた。
しばらく前にリリースされたドキュメンタリー映画『オンリー・ザ・ストロンゴ・サヴァイヴ(ソウル・サヴァイヴァー)』でも、元気な姿が映っていた。
最近は、2008年11月公開予定の映画『ソウル・メン』の撮影に入っていた、という。この映画ではサミュエル・ジャクソン、また、同週(2008年8月9日)に死去した黒人コメディアン、ベニー・マンらと共演していた。彼の撮影は終了していたという情報もある。その場合、映画は無事公開され、ベニーとともに遺作となる。ヘイズは約60本近くの映画に出演した。また彼は、昨年再開したスタックス・レコードと契約を結び、1995年の『ロウ・アンド・リファインド』以来の新作アルバムの制作にも入っていたという。
2007年1月、ヘイズは脳梗塞で倒れ、その後自宅で療養。2008年8月10日、自宅で倒れ、バプティスト・メモリアル病院に運ばれたが、午後2時過ぎ死亡が確認された。
アイザックには現在の妻、3人の元妻、12人の子供、14人の孫、1人のひ孫が残った。現在との妻には2歳になる子供が1人いる。
(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きます)
■ アイザック・ヘイズ シャフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006BH2P/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ 関連記事
AP通信の記事
http://ap.google.com/article/ALeqM5gsCUwiqAHCNIbxD6oePjCg1RToZQD92FOTRO0
ロイター通信の記事
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&;virtualBrandChannel=0
ビルボード誌の記事
http://www.billboard.com/bbcom/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1003837514
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)
訃報。
メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)午後1時過ぎ(現地時間)、メンフィスの自宅地下のトレーニング・マシンのところで倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、脳梗塞で倒れていた。
ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。母親がアイザックが18ヶ月の時に死去、父が失踪したために姉とともに祖父母に育てられた。生活は貧しく、高校を中退。幼少のころから教会でゴスペルを歌い音楽に親しんできたが、ピアノなどを独学でマスター。その頃のアイドルは、ナット・キング・コールだった。1960年代初期からメンフィス近辺で音楽活動を始め、1963年までにはメンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードのスタッフ・ソングライターとなる。ここで、パートナーとなるデイヴィッド・ポーターと出会い、彼とのコンビで多くの作品を生み出す。大ヒットとなった作品には、サム&デイヴの「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミング」「ホエン・サムシングス・ロング・ウィズ・マイ・ベイビー(僕のベイビーに何か)」など多くあり、スタックスの重要なソングライターとなり、2人の作品は200曲近くになる。
1967年、ジャジーでアダルトなムードあふれるアルバム『プレゼンティング・アイザック・ヘイズ』でアーティスト・デビュー。これは売れなかったが、1969年リリースの『ホット・バタード・ソウル』が爆発的に売れ、いっきに注目のシンガー・ソングライターとなった。これは、リッチなオーケストラ・サウンドとヘイズの低音の魅力が出た作品でそのセクシーな歌声ともナレーションともとれるパフォーマンスが、唯一無比で一世を風靡した。ここには当時のアナログで4曲しか入っていなかったが、いずれもが長尺の作品で、そうした作りも当時としては斬新だった。
その後、2枚のアルバムを出した1971年、いわゆるブラック・ムーヴィーとして注目を集める映画『シャフト』の音楽を担当。ここから「シャフトのテーマ」が全米ナンバーワンになる大ヒットを記録。アイザック・ヘイズは押しも押されぬ大スターになった。しかも、この曲はグラミー賞だけでなく、オスカーも獲得。
1972年、スタックスが社運をかけて行った大イヴェント『ワッツタックス』に登場。その派手さから、彼は「ブラック・モーゼ」の異名を取るようになる。
さらに、スタックスが1975年に倒産後は自身のレーベル、ホット・バタード・ソウルを設立、コンスタントにアルバムを出すが、同レーベルも行き詰まる。
アイザック・ヘイズ自身はアーティストとして、また映画俳優として、少しずつ活動の幅を広げていく。テレビ映画『ロックフォード・ファイル(ロックフォードの事件メモ)』『マイアミ・ヴァイス』などにゲスト出演。映画俳優としては、1981年の『エスケープ・フロム・ニューヨーク』での演技が高く評価された。シンガーとしては、1977年、ポリドールに移籍、ディスコ調のヒットをいくつか出した。
ヘイズはその後、1990年代に入ってニューヨークのラジオ(KISS=FM)でDJを担当したり、1997年からは人気テレビシリーズ『サウス・パーク』でシェフ役の声を担当するなど活躍していた。しかし、彼がサイエントロジーの宗教を信仰し、そのことを扱ったエピソードがあり、それに不満を表明し、2006年になって『サウス・パーク』を降板した。
音楽的には、多くのヒップホップ・アーティストや若いシンガーからサンプリングされるようになり、改めて注目を集めるようになった。中でも、アリシア・キーズはアイザック・ヘイズの影響を語っている。彼女によれば、自分の「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」が6分以上になるのも、アイザックの作品が平気で10分を超える長尺のものが多々あったからだ、と述べる。つまりシングル用に3分程度の曲が一般的だった頃、アイザック・ヘイズはそうした常識に囚われず長い曲を録音していた。
しばらく前にリリースされたドキュメンタリー映画『オンリー・ザ・ストロンゴ・サヴァイヴ(ソウル・サヴァイヴァー)』でも、元気な姿が映っていた。
最近は、2008年11月公開予定の映画『ソウル・メン』の撮影に入っていた、という。この映画ではサミュエル・ジャクソン、また、同週(2008年8月9日)に死去した黒人コメディアン、ベニー・マンらと共演していた。彼の撮影は終了していたという情報もある。その場合、映画は無事公開され、ベニーとともに遺作となる。ヘイズは約60本近くの映画に出演した。また彼は、昨年再開したスタックス・レコードと契約を結び、1995年の『ロウ・アンド・リファインド』以来の新作アルバムの制作にも入っていたという。
2007年1月、ヘイズは脳梗塞で倒れ、その後自宅で療養。2008年8月10日、自宅で倒れ、バプティスト・メモリアル病院に運ばれたが、午後2時過ぎ死亡が確認された。
アイザックには現在の妻、3人の元妻、12人の子供、14人の孫、1人のひ孫が残った。現在との妻には2歳になる子供が1人いる。
(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きます)
■ アイザック・ヘイズ シャフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006BH2P/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ 関連記事
AP通信の記事
http://ap.google.com/article/ALeqM5gsCUwiqAHCNIbxD6oePjCg1RToZQD92FOTRO0
ロイター通信の記事
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&;virtualBrandChannel=0
ビルボード誌の記事
http://www.billboard.com/bbcom/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1003837514
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)