Hank Ballard: Original Twist Man

名脇役。

常に物事には光と影があります。太陽が正面から照ってくれば、後ろに影ができます。表で成功するものもあれば、その成功の影に隠れるものも生まれます。

ハンク・バラードは、そういう意味で、影の中に成功を見出したR&Bシンガーと言えるでしょう。

ハンク・バラードは1927年11月18日デトロイト生まれ。(今回の死去報道の中で、これまで1936年とされていた生年が、出生証明書には27年と書かれていたことがわかりました) 7歳のときにトラック運転手の父親が死に、アラバマ州の親戚のところに預けられるが、15歳のときに家出し、デトロイトに戻ってきます。1952年、ゴスペルグループ、ロイヤルズに参加した後、53年に同グループのリード・シンガーに。54年にはグループ名がミッドナイターズに変更されました。

1953年キング・レーベル傘下フェデラルから「ゲット・イット」が初ヒット。翌54年4月から「ウォーク・ウィズ・ミー・アニー」がR&Bチャートで1位を記録。この曲はそのセクシュアルな内容から一部の放送局で放送自粛となりますが、それでも大ヒット。この曲には、プラターズの「アニー・ダズント・ウォーク・ヒア・エニモア」、エタ・ジェームスの「ロール・ウィズ・ミー・ヘンリー」などのアンサーソングまで登場。さらに、ハンク自身で続編とも言える「アニー・ハド・ア・ベイビー」などをリリース、これも1位になり、スターダムにのし上がりました。

さらに彼の名を決定づける作品が59年2月に発売されます。それは、「ティアドロップス・オン・ユア・レター」というシングル盤です。この曲はR&Bチャートで4位まで行くことになるのですが、実は、ハンク・バラード本人はこのシングルのB面にいれた曲を、シングルのA面にしたかったのです。しかしレコード会社は、それを受け入れず、ハンクが気に入っていた曲はシングルのB面に収録されてしまいました。

その曲こそ、「トゥイスト」という曲でした。そう、60年代を席巻する大ヒットダンスです。このハンクのヴァージョンは、シングルB面であるにもかかわらず、それでも、ヒット。R&Bチャートで16位を記録します。

このハンクの作った「トゥイスト」は、元々1955年、クライド・マクファーター&ドリフターズのヒット曲「ホワッチャ・ゴナ・ドゥ」のメロディーを借りて、新たなリズム、歌詞を作り制作した曲でした。それが、当時はやり始めたリズムとあいまって、ヒットに結びついたのです。

そして、このハンクの「トゥイスト」のヒットに注目したもう一人のR&Bシンガーがいました。それがチャビー・チェッカーという歌手です。

チャビー・チェッカーはもちろん、芸名。一足先に、ファッツ・ドミノというR&Bシンガーが人気となっていて、このチャビーも太っていたことから、ニックネームがチャビー(太っちょの意味)と呼ばれるようになり、すでにファッツ(これも、同じく太っちょの意味)がいるので、チャビーになり、ファッツがドミノなら、こっちは、チェッカーだ、ということで、チャビー・チェッカーという名前がつけられたのです。

そして、チャビーのヴァージョンはさらに時代の波に乗り、60年8月から大ヒット、全米ナンバーワンを記録。この曲のヒットの勢いはとどまらず、一度チャートを消えた後も再びチャート入りし、翌61年に再度全米ナンバーワンを記録する、非常に珍しい例となりました。

その「トゥイスト」のオリジナルがこのハンク・バラードです。彼は、後に63年からジェームス・ブラウン・ファミリーに入り、彼のレヴューの中で活躍するようになります。そんな中では72年の「フロム・ザ・ラヴ・サイド」が中ヒットし、有名です。これは、ジェームス・ブラウン・ファンの間では非常に人気の高い一曲です。

彼のキャリアを振り返ると、その「トゥイスト」の栄誉をある意味で、チャビー・チェッカーに奪われた点で光というよりも、影という感じがします。そして、ジェームス・ブラウン・ファミリーに入ってしまえば、あくまでそのファミリーにおおけるナンバーワンはミスターブラウンですから、やはり光とはなりません。そういう意味では、名脇役、名バイプレイヤーといったことになるのでしょう。ご冥福をお祈りします。

ハンク・バラード、本名、ジョン・H・ケンドリックス、2003年3月2日、ロスアンジェルスで死去。75歳。

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