▽山下達郎~素晴らしき人生:アコースティック・ミニ・ライヴ

▽Yamashita Tatsuro Live At Hamarikyu Asahi Hall

【山下達郎~素晴らしき人生】
リハビリ山下達郎
いろいろなご縁と幸運があり、山下達郎さんのアコースティック・ミニ・ライヴを見ることができた。これは2008年5月5日と6日、浜離宮・朝日ホールで昼・夜2回ずつと、大阪で5月10日に2回の計6回行われるもの。CD購買者から抽選で当選した人、また6日夜の部は達郎さんのラジオ番組『サンデイ・ソング・ブック』(毎週日曜午後2時~・東京FM系列全国ネット)で募集し当選した人たちへの無料ライヴ。会場の規模が小さいために小編成(ギター、ベース、ピアノ)でのアコースティック・ライヴとなった。
セットリストなどはネットに書かないで欲しい、という達郎さんの意思を尊重しここでは詳細は省くが、この2時間余に感じたこと、僕がインスパイアーされたことを書いてみたい。なお、セットリストを書かないでというお願いを、彼は6日の夜の部では言い忘れた。ただ、セットリストは大阪終了後には公開できると思う。
僕が彼の音楽を知ったのは1979年かその前年ごろだと思う。その頃の僕はソウルのレコードに熱中していて、アメリカからのソウルのシングル盤やアルバムをかたっぱしから買っていて、ほとんど日本の音楽には目を向けていなかった。
そんななか、1979年に僕は西麻布の「トミーズ・ハウス」という店に出入りするようになり、1980年にはそこで週2回DJを始める。そこのオウナー兼DJのトミーが実に音楽に対してセンスがあり、普通の洋楽曲にさらりと日本のポップス(歌謡曲ではなく、洋楽に強い影響を受けているもの)をまぜてかけていた。そこに山下達郎の一連の作品があった。たぶん、彼のソロ、それからシュガーベイブ、その周辺アーティスト作品などをかけていたのだが、ずいぶんここでそれらの曲を覚えた。
なによりも強烈に覚えているのが、これは一度書いたが、この店のクロージング・テーマが山下達郎の「ラスト・ステップ」(1976年『サーカス・タウン』に収録)だったということだ。毎日閉店時の午前3時になると、これがかかり、暗かった店内の照明が明るくなる。だから、僕はこの曲がかかると、トミーズ・ハウスが少し薄明るくなり、客の残したごみや汚れが姿を見せ、散らかった感じが浮かび上がってくる映像がフラッシュバックする。
その頃感じたのが、「ここまで洋楽寄りの日本の音楽って、一般には売れないだろうなあ」というものだった。実際ニューヨークでチャーリー・カレロといったアレンジャーを起用して制作した作品は、カラオケだけだったらもろ洋楽だ。いってみれば、彼の音楽は日本の音楽シーンの中ではかなりの「カウンター・カルチャー」だったような気がする。あるいは、メインストリームに対するオルタナティヴだ。一部の熱狂的なファンを作るが、それが一般受けするとはとても思えなかった。
ところが時代は急速に変化していく。1979年、ソニーがウォークマンを発売。音楽がオーディオルームから外に飛び出す。車にカセットテープのカーステレオが搭載される。そして、1980年「ライド・オン・タイム」は、CMに使われ、見事な大ヒットとなる。
さらに、1980年12月8日、ジョン・レノン暗殺。このニュースはNHKの『7時のニュース』や朝日新聞の一面で取り上げられ、それまで洋楽アーティストや洋楽というものが、あくまで一部の人たちのものであったのが、一挙に市民権を得る。この年には、田中康夫の小説「なんとなくクリスタル」が大ヒット。これも、それまでだったらカウンター・カルチャーだったものが、オーヴァーグラウンドになったものだった。ここにもたくさんの洋楽アーティストのレコードが出てきていた。
こうした背景から、僕は1980年という年が、あらゆるところで、それまでアンダーグラウンドだったものが、オーヴァーグラウンドにメジャーになっていった年だと感じている。ある意味で、後に言われる「Jポップ」の誕生年としてもいいのではないか、とさえ思う。山下達郎とその音楽も、それまで一部の洋楽マニアの間だけで受け入れられていたものが、広く一般に浸透し始めた。彼の音楽のルーツにはご存知の通り、アメリカン・ポップスだけでなく、アメリカのソウル・ミュージック、さらにドゥワップなども厳然とある。だからそうしたものの影響があり、彼のフィルターを通したそうしたブラック・ミュージックの部分に、ソウルしか聴いて来なかった僕が反応したとしてもおかしくはない。特にアカペラ・アルバム『ストリート・コーナー・シンフォニー』が登場したときには度肝を抜かれ、これがアメリカで出たらそのソウル・シーン、ポップ・シーンでどのように受け入れられるか、ものすごく興味を持った。
僕は1980年か翌年、中野サンプラザに初めて彼のライヴを見に行った。日本のアーティストのものをサンプラザに見に行ったのはそれが初めてだった。だから27~8年ぶりの山下達郎ライヴということになる。
彼がギター片手に歌っている間、そんなことに思いを巡らせていた。そして、彼の音楽に対する真摯な姿勢、まじめにストイックに追及してきている様に感銘した。彼がやってきていることは、1970年代の半ばから、つまり最初から30年以上経った現在まで、まったく軸がぶれていないのだ。しかも、いわゆる「ザ・芸能界」的な部分とは一線を画し「アーティスト」としてしっかり地に足をつけて活動している。それは信念といってもいいだろう。強い信念は立派な道を作るのだ。
彼の言葉の中でものすごく印象に残ったことがある。ネタばれになるが、これだけは書いておきたい。「僕は音楽が政治や世界を変えられるなどとは一度も思ったことはないんですけど、音楽で、人々の気持ちや心を癒せたり、慰めたり、励ますことができるのであれば、そうしていきたい」(大意)。素晴らしい。その通り。完全に同意する。
彼が歌った曲を聴いていると、本当に職人ソングライターだなあ、と強く感じる。あるいは職人シンガー・ソングライター、といってもいいかもしれない。それは、イチロー選手、王選手などに通じる天才肌の職人だということである。多くの人は、イチローや王を「天才」というが、僕はそれ以上に努力の人、努力を積み上げに積み上げて、一見「天才」に見せてしまう、そういうことをやってのけてしまう人物に思える。もちろん基本的な才能は他の選手よりもはるかにあるだろう。彼らより身体能力のある選手はいくらでもいるはずだ。だが彼らが抜きん出ているのは、その基本的な身体能力以上に、努力であり、徹底的な追及であり、切磋琢磨なのだ。山下達郎もそうだ。
そしてなによりも、この日、もっとも強く感じたのが、彼自身がこの音楽をやることを楽しんでいる様が手に取るようにわかったことだ。「これまで自分が書いた曲は270曲くらいですが、やはりその中には、出き、不出来があって、思いいれのある曲、歌いたいと思う曲がでてきます。昔は(ライヴで去年と)また同じ曲をやるのかと、来ているお客さんにしかられたりするので、いろいろ考えましたが、最近は歌いたい曲は素直に歌おうかなと思うようになってきました」(大意)といったところに、純粋に自作曲を演じて楽しむ、楽しんで歌うことへの渇望が読み取れる。もちろん、彼が言うように古い曲ばかりやっていたら、オールディーズの歌手になってしまうが、「もう少し前に進みたいんで」という気持ちもあるので、そのあたりはバランスをとってくれるのだろう。
自分が好きなこと、音楽だけを、自分の好きなようにやってきて、ここまで来られている。「売れない、多くの修羅場をくぐって」今、この地に立つ。こんな素晴らしい人生はないではないか。しかも美しい奥さんまでいて。まさにそれは「バラ色の人生」だバラ
■ メンバー
山下達郎 (ギター、ヴォーカル、パーカッション、鉄琴)
伊藤広規 (ベース)
難波弘之 (ピアノ)
■ セットリスト 山下達郎
Setlist : Yamashita Tatsuro @ Hamarikyu Asahi Hall, May 6th, 2008
(セットリストの内容は、アーティスト本人の意向で載せていません。大阪公演終了後に)
Show started 18:30
Show ended 20:36
(2008年5月6日火曜、浜離宮・朝日ホール=山下達郎・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Yamashita, Tatsuro
2008-75
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(参考)
++2008年12月の大阪フェスティヴァル・ホールでのライヴ評↓
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