Con Funk Shun: Came To Japan 8 Times

【コン・ファンク・シャンの来日は8度目】
8回目。
今年冒 ­を飾るごきげんなライヴを見せていったコン・ファンク・シャン。これまでの来日履­をいろいろ調べてみた。
コン・ファンク・シャンが初めて日本にやってきたのは1974年5月のこと。この時はスタックスの女性R&Bシンガー、カーラ・トーマスのバックバンドとして米軍­ャンプにやってきた。その来日時(­確には5月26日)、コン・ファンク・シャンは赤坂 ゲンのオーディションを受けていた。もちろん、そのライヴを見た ゲンの阿南支配人は一発で気に入り、同年11月、­式に「ハコ・バンド」(1ヶ月や2ヶ月、その店にレギュラーとして毎日出演するバンド。主として当時のヒット曲のカヴァーなどを演奏し、客を踊らせる)として再来日。一応、コン・ファンク・シャンとしてはこれが初来日となる。
これが大評判となり、翌1975年7月23日から9月15日までおよそ2ヶ月、2度目の来日。ちょうどこの 、コン・ファンク・シャンはメンフィスの­ーカル・レーベル、フリトーンから7インチ・シングル「ミスター・タンブリンマン」をリリース。 ゲンでも時々この曲を演奏していたと記憶する。この後、彼らはメジャーのマー­ュリーと契約、1976年デビュー。当時 ゲンで遊んでいた連­は、あのコン・ファンク・シャンがメジャー・デビューしたと大喜びしていたもの った。そのデビュー作のスペシャル・サンクスのトップに、 ゲンの阿南氏の名前が 々と書かれている。
次が1983年12月から1984年1月にかけて3たび ゲン。その後80年代後期か90年代初期に、芝浦のどこかのライヴハウス(インクスティックではないらしい)に来日。た し、この時はフェルトン・パイレートはグループを抜けていて来日していないそう 。
5回目は1996年10月13日、­ャメオ、エモーションズらとともに日比谷野外音楽 での『ファンク・フェスティヴァル』で来日。6回目はミラクル川畑さんがらみ、チョコレート・クリー 主催で今はなき芝浦トゥーフェイスでのライヴが2001年10月8日。その後2002年か2003年に大阪ブルーノートに来日、それ以来の来日ということで、今回はコン・ファンク・シャンとして8回目の来日になる。フェルトン自身はこのほか、­Cハマーについて2度来日している。
最終日、川畑さんたちがコットンに彼らを見に行き、メンバーたちと旧交を温め、最終日ということで、彼らのために急遽­本木のSSB(ソウル・ソニック・ブギー)を開けてプライヴェート・パーティーをすることになった。
僕も連絡を受けてSSBに行った。メンバーはほとんどが来ていて、思い思いに踊ったり、話をしたりしていた。フェルトンを見つけて話かけると「いやあ、(今回の来日で)すっかり日本を気に入り、もう家に帰りたくないよ(笑)」と言う。フェルトンは、いつもライヴが終わるとすぐにホテルに戻って寝てしまうそう が、この日は最後ということもあってか、SSBにやってきた。DJはその日ライヴを見に行ったDJアト や、テッペイ君、­ヨミさんらが担当。
SSBでは、コン・ファンク・シャンが出ている古い『ソウル・トレイン』のテレビ 像を流していた。みんな若くて、えらく受けていた。
彼らはマー­ュリー・レコードで1976年から1986年にかけて11枚のアルバ を出した。11作目の『バーニング・ラヴ』をリリースし、これが不成功に終わった時点で、グループは一旦解散。フェルトンはソ­、プ­デューサーに、またリード・シンガーのひとりマイケル・クーパーもソ­になった。しかしその後90年代になってから、彼らは再び手を組み、コン・ファンク・シャンを再結成し、現在では年間3-40本ほどのライヴを敢行している。僕は11枚のアルバ のうち、7枚目、そして9枚目から11枚目まで計4枚のライナーノーツを書いていた。
(フェルトン・パイレートの話を近日­にまとめます)
(Special Thanks To Lu And Felton: For Providing Information About Group’s History Of Coming To Japan)
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