【ジェー ス・ブラウン、アポ・シアターに戻る】
帰還。
12月25日クリスマスの日に亡くなった「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」ことジェー ス・ブラウンの遺体が故郷オーガスタから、陸路でブラウンが愛したもうひとつのふるさと、ニューヨークのアポ・シアターに運ばれ、アポで一般客の弔問を受けることになった。すでにこの話を聞きつけた一般のファンが、木曜の朝からアポの周囲に並び始めている。棺はオーガスタを水曜の夜に出発し、約12時間をかけて陸路でニューヨーク入りする。飛行機で移動しなかったのは、単純に飛行機の最終便に間に合わなかったためという。「写真は、アメリカ・ーリング・ストーン誌のサイトより。詳細は、次のアドレス
にあります。 http://www.rollingstone.com/photos/gallery/
12985546/james_brown_1933__2006/photo/1/large/jamesbrown 」
棺は30日土曜日の午後までに一般に公開される予定で、人々とジェー ス・ブラウンとの最後のお別れとなる。
ジェー ス・ブラウンのアルバ で初めて大ヒットとなったのが、1963年発売の『ライヴ・アット・ジ・アポ』というアルバ 。これはその前年1962年10月24日にアポ劇 で録音されたもので、63年6月からヒット。アルバ ・チャートで2位を記録、彼のまさに出世作となった。このアルバ は、ブラウンがレコード会社の反対を押し切ってリリースさせたもので、この成功が後のブラウンのャリアに大きな影響を与えたエポック・メイングな作品ともなった。アポは、ブラウンにとっての、真の意味での出発点 。ブラウンは、長い旅を経て今、その出発点、ルーツに戻る。
また、ニューヨークでは棺を馬車に乗せ、ハーレ の街角をアポまで行進し、3日間の通夜を行う。この3日間におよぶ通夜は、通常、皇室・王族のみに対して行われる。
「彼は黒人たちに、黒人であることを誇りに思わせ、私たちのルーツ(祖先)を大事に親しむべき と教えてくれました。私たちに何も目標がなかった時代、尊敬すべき人物がいなかった時代、私たちに唯一あったのが(ブラウンの)音楽でした。ジェー ス・ブラウンは私たちに力を与えてくれた人物の一人です」 こうチャンネル11にえたのは、夜明け前からアポで並び始めたアミノ・ハイマンさん。
「ハーレ におけるイヤル・デイ(王者の日)になる ろう」とブラウンの親友でもあり、棺の乗ったヴァンに同乗したアル・シャープトン師は語った。アル・シャープトンは、ブラウンの妻エイドリアンが去した1996年1月の葬儀の時、またブラウンの母親が亡くなった時も葬儀の指揮を取ったが、まさかブラウン本人の葬儀を取り仕切るとは夢にも思わなかったよう 。シャープトンは「ハーレ のコミュニティーにとって長い間ほとんどなかったような凱旋になることを約束する」という。また「夜通しのドライヴになろうが、そんなことはかまわない」とも語った。
アポ劇 は、多くの人の参列のために、列の仕切り線などの準備に追われている。シャープトンによれば、「ブラウンは、(自分のショーを見るために)アポの外に人が並んでいるのがとても好き った。アポでやるたびに、彼は言っていた。『外にはどれくらい人がいるん 』 そこで、私は『そこの角くらい 』とか、『2ブック先まで』なんてえてた。私の夢は、こう言えること 。『ミスター・ブラウン、みんなあなたのために、最後の行列をしていますよ』と」
ブラウンの遺体は、1956年に立ったステージと同じ舞台に木曜日の午後1時から8時の間に通夜のために安置される。そこで、彼の音楽 けが流される。午後6時から6時半まで、家族と親しい友人たちが参列、この様はメディアも見守る。
アポ劇 の史に詳しい史家のビリー・ミッチェルによると、ジェー ス・ブラウンは、アポが1934年にオープンして以来、累計でもっとも多くの観客を集めたアーティスト という。
アポで葬儀が行われたことはあるが、それまではいずれもアポの従員 け った。また一般弔問を受け付けたのは、1992年8月、アポ劇 の『アマチュア・ナイト』創始者ラルフ・クーパーの葬儀の例がある程度 という。
アポでの葬儀が決まったのは、2006年の『アマチュア・ナイト』の決勝戦が行われたまさにその夜(水曜)のこと った。
アポの入口上に飾られるマーー(表看板)には次のように書かれる。\”Rest in Peace Apollo Legend The Godfather of Soul James Brown, 1933-2006.” 同時に史的作品『ライヴ・アット・ジ・アポ』のアルバ がそのマーーのスピーカーから流れる予定 。
近くに住む現在はフィットネス・クラブのオウナー、バリー・ハモンズ氏は、かつてアポの「アマチュア・ナイト」で3回優勝し、ブラウンに一度会ったことがある。その時彼はこう言われたそう 。「これが、君のやりたいことなら、オーディエンスと真剣に交われ。そして、やり続けること 」
大晦日にBBングのブルース・クラブに出演する予定 ったジェー ス・ブラウンの代役には、シャカ・カーンが決まった。
http://www.cnn.com/2006/SHOWBIZ/Music/12/28/jamesbrown.funeral.ap/index.html?section=cnn_latest
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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 – 2006.12.25 (73)
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