【レイ・デイヴィス死去】
Pファンク。
パーラメント/ファンカデリック(Pファンク)のベース・ヴォーカル、レイ・デイヴィスが2005年7月5日(火曜)、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックのロバート・ウッド・ジョンソン大学病院で、呼吸器疾患で死去した。65歳だった。
Pファンクの総帥、ジョージ・クリントンは次のような声明を発表した。「私たちはみなレイをしのぶ。レイは、パーラメントのベース・ヴォーカルだった。だが、彼は本当にパーラメントの心だった。きっと新しい世界でも歌っているだろう」
レイモンドは、1940年3月29日サウス・キャロライナ州サムター生まれ。12人兄弟の末っ子。愛称「スティング・レイ」。子供の頃から教会でゴスペルを歌っていた。1961年、それより先にニュージャージーで結成されたR&Bのドゥワップ・グループ、パーラメンツに加入。パーラメンツとして、「アイ・ウォナ・テスティファイ」(67年)などのヒットを放った。その後71年、グループ名はパーラメントに。また、グループを作ったジョージ・クリントンはパーラメントのほかにほぼ同じメンバーで同系統のファンカデリックというグループを結成。実質的には同じグループだが、グループ名を違えるだけで二つのレコード会社と契約するという前代未聞のことを行った。
レイ・デイヴィスは、ファンカデリックでもベース・ヴォーカルを担当。「ギヴ・アップ・フォー・ザ・ファンク」、「ワン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ」など多数のヒットで歌った。
その後、84年にPファンクを離れ、ザップ/ロジャーに参加。88年頃までザップの一員となった。その後、しばらく歌手活動を辞め、サウスキャロライナに戻った。しかし、93年9月、テンプテーションズから思いもよらぬ誘いがきた。
デトロイトの名門ソウル・ヴォーカル・グループ、テンプテーションズのベースシンガー、メルヴィン。フランクリンが体調を崩し、カムバックできそうにないので、グループに参加しないかというオファーだった。メルヴィンは結局95年2月に死去。レイも、しばしテンプスに参加した。
ENT>OBITUARY>Davis, Ray>2005.07.05 (65)